オパールライス戦争
     【第一部】

古井みち子 作 (無断転載を禁じます) 

  1章 原須塔司について

  2章 オパールドームのほうへ

 あなたは、帯川の向こう岸の崖の上に、虹色に輝くオパールドームを見たことがあるだろうか。見たことはなくとも、マス=コミを 通じてか、人の噂でか、山を背に白い崖から怪しい光を放つ、夕映えのドームのことは知っていよう。いや、もう一度は、オパールライスを口にしたことがあるかもしれない。幾多の謎につつまれた原須財団は、あの橋の向こうから、オパールライス(ORYZA OPALUS)を今日も送り出している。

1章 原須塔司について    

 首都を離れたルート61は、だらだらとした丘陵を抜けると、一転してどこまでも平らな田園地帯を西に向かう。時折、長距離トラックがけたたましく行き過ぎる以外に、通る車もなかった。
 いやになるほど退屈なハイウェイを、原須塔司は走っていた。運転席から、いつもと同じ変わり映えのしない風景を見るともなく見ている。いつもと正確に同じ風景の中から、その時、今まで何度通っても気付きもしなかった森を、突然見出したのだった。
 森から一本の細い道がまっすぐこちらへ向かって突き刺さるように伸びてきて、急に地下にもぐってまた再び左側へ現れる。舗装もされていない細い道だが、道があるからには、森の中に何かあるはずだった。
 塔司はもう、細い一本道を森へ向かって車を走らせていた。近づくにつれて強く心引かれ、別邸をここに建て独り週末を過ごすのもいいと思い、もう次には是が非でも手に入れると決めていた。
 小道は思いのほか長く、森は遠い。
 どこにでも、忘れられ打ち捨てられた場所がある。特に不便というわけでもなく、すぐそこに見えていながら誰も寄りつかず、結界のように鳥さえ迂回する所、そういう森だった。
 進むにつれ木々の緑は濃く深くなり、道は暗くなった。
 いつの間にか森の中に紛れ込み、途中で道は消えている。塔司は森に降り立った。わずかばかりの空き地が現れ、そこに何があったのか、今は知る術もなく、朽ちた倒木や落ち葉が折り重なり、夏でさえ暗く冷たく湿っていよう、菌類がほの青い臭気を放つ。
 社や祠があった気配もなく、ましてや人家があった形跡はみごとになくて、盛り上がった苔の上には人の踏み跡一つなかった。
 その森は森以外ではない。
 塔司は車の窓を開け放ち、暖かい南傾斜の道を戻っていった。森は塔司を受け入れ、主と認めるだろう。
 一度止まって、森を振り返り、戯れに車のエンジンを切った。
 車は坂道をゆっくり滑り出し、しだいに勢いを得て、惰力でシートの背中をぐいぐい押し、タイヤで小石をはね飛ばし、どこまでもくだっていく。
 路面の凹凸が過不足なく尻に伝わり、塔司はずるずる地面の中に引き込まれいくような眩暈を覚えた。

 つい先程まで、首都のTV局で、笑顔を作ってインタビューに答えていたのだった。
 原須財団理事長・原須塔司の不敵な言説に、反感を覚える者も多いかもしれぬ。愁いを含んだ端正な横顔だけを記憶に留めたかもしれぬ。TVカメラに向かって、組んだ長い脚を挑発的に跳ね上げ、それからソファに深く体を沈め時々わざとらしく髪をかき上げて、マス=コミが流すイメージ・稀代のプレイボーイ、大富豪、財閥の若き総師、等々をそのまま忠実に演じてみせた。
 原須塔司とは何者なのか。何者であるのか、当人自身でさえ関心を失っているかのように、関心を持つこと自体無意味となってしまうような、諦念といえるほどの沈んだ目の光を放つのは、どうしたことだろう。単に司会者の愚問に辟易してのことだったのか。些細な不快感も秀麗な風貌には深い翳りを落としてしまうということか。
 ともかく、暗い顔をした塔司は、TV局の生放送中に突然立ち上がり、長身の体躯がTVのフレイムからはみ出して、あわてたディレクターが映像の切り換え指示を出す間もなく、早くも後ろ姿だけになっていた。原須塔司は報道の自由も、マス=コミの正義も冷笑している。
 そんなことは誰も信じていないにもかかわらず、視聴者の知る権利だの、正々堂々と議論しようだの、逃げるんですか、だの叫ぶ司会者の間抜け面には目もくれず、ズボンのポケットに片手を入れたまま、平然と塔司は立ち去ったのだった。司会者とて恥をさらした分だけの話題作りはできたし、無責任に興奮を煽っても誰も傷つくわけではないので、この時ばかりに騒ぎ立てて更に馬鹿さ加減を露呈したとしても、それでひるむような神経は持ち合わせていないのは周知のことだったので、塔司の暴挙なり快挙なりに溜飲を下げた者も多かったはずだ。こういうTV番組は、最初から茶番劇だと誰もが知っていたから、塔司は司会者の思わくとは反対に、大いに喝采を受けたのだった。なにしろTV画面から姿を消した塔司は、その居城たるオリザホールに帰ってしまい、二度と画面に現れることはなかったのだから。もっとも、本当に原須がオリザホールに住んでいるのか確かめた者はいない。一説には都心のエムパイヤ・ホテルのロイヤル・スウィートルームを常宿にしているとか、クリスタルパレス・マンションのワンフロアを所有してるいった風説も流れたりしていて、つまりは塔司の日常を知る者はなく、興味本位にしろ興味の持ちようがなく、知ったところで本当かどうかわからないので何の意味もないということだった。
 塔司は、司会者に対して何事か語ろうとする気もなければ理解してほしいと願ってもいず、オパールライスの宣伝をするわけでもなく、なぜ塔司がTVに出る気になったのか、今となっては誰にもわからない。ほんの気紛れからか、あるいはTVに出た瞬間に出たことを後悔したのかもしれぬ。ゴシップ誌がかまびすしく書き立てたところで、それは最初からそんなことだろうと言うことしか書かれてはいないので、誰でも知っていることを繰り返しているに過ぎない。
 その騒動の発端となった、TVプログラムとはこんなものだった。

司会 ――皆様、本日は昨今大変評判となっているオパールライスを栽培出荷している原須財団の理事長が、TV初登場致します。ご婦人方は、ことに待ち遠しかったことでしょう。
 では、まず原須財団の組織的な面からうかがいましょう。
塔司 ――津久南山(つくなんざん)一体の山林は、原須家の別荘があった所ですが、七十年程前に祖父が研究所を設立して、温室栽培、農作物の品種改良、植物生理学の基礎研究等に取り組んできたわけです。
 ご存じの通り、祖父を大博物学者などと評価する方々もいらっしゃるが、大方は奇人変人、よくて好事家、道楽者、時には狂人扱いということさえありました。まあ、それは故なきことでもなく、息子夫婦を、つまり僕の両親ですが、馬鹿げた交通事故で失ってからは、世捨て人同然になりましたから。その祖父も十年前に他界し、僕と妹のコジマが原須興産を受け継いだのです。
司会 ――資産百五十億ともいわれていますが。
塔司 ――さあ、そういうことは、今は分かりません。
 原須興産は元々銅鉱山を母胎とした企業グループですから、原須一族を山師なり胡散臭い成り上がり者と見做してかまいませんが、僕はもう事業欲や野心は失せました。
 原須興産の経営からは完全に手を引いて、財団の運営だけに専念しています。
 僕も世捨て人です。
司会 ――ですが、オパールライスは大変好評のようですが。
塔司 ――その点で、誤解なさっている方が多いようです。
 オパールライス研究所は、ドームとファクトリー、管理用のオリザホールから成り、育種や品種改良の研究をして、米の生産を行ってはいません。研究所は祖父の代から、建物を新築しただけで、そう変わってはいないのです。
 米を生産するのは、セトラーと言われている、ファームに契約入植した独立農業経営者です。種籾や肥料は研究所が提供しますが、無農薬・有機農法であればどんな栽培方法でもかまいません。彼らは自立した事業者であり、それぞれ農業に対するノウ・ハウは持っていますからね。
 僕としては、原須コロニーはあくまでも、消費者運動だと思っています。消費者の権利とは選択権のみなのだが、その選択権すら行使できない状況では、自分で作るしかない。僕が安全で旨い米を食べたいと思う、それだけの理由で十分コロニーは成立する。全くの消費者エゴです。消費者運動は消費者エゴに徹しなければ意味はない。世の為、人の為、社会正義の為、そういう信念を持っている人々それはそれで結構だが、本来消費者運動とは別物です。僕は宗教家でも革命家でもないから、人様のことには興味はなく、消費者の権利・選択権を守り抜くだけだ。ただ、それでどこへ行き着くのかは、興味のあるところだし、面白いですよ。
 まあ、ですから、セトラーや研究所員と当然対立することもあります。
司会 ――はあ、ところで、セトラーですか、入所時に二千万円払い込んだということですが、いかがなものでしょう。
塔司 ――三年以内に脱退する場合は、契約約款に沿って応分の返却はあります。事業の元入れとして高いとは思われない。
司会 ――セトラーは何人ですか。
塔司 ――ファームは二十ヘクタール程で、五世帯入植した。農業機械や住宅は自主管理になっている。農地は一戸当たりそれほど広くもないが、元来、日本に専業農家という概念はない。昔から農民は、狭い耕地であらゆる工夫をして生きてきたものだ。だから、日本の農業は兼業が本来の姿かもしれない。近代的な大規模経営ばかりがいいということもなく、小規模農業がそれとして自立する道はいくらでもあります。
司会 ――オパールライスが今年初めて出荷されて、新食糧法の元での商品としての米に慣れて久しいとはいえ、1971年に本格化した減反政策、84年韓国から米緊急輸入、多用途米制度、93年の凶作騒動といった経過をへても、今年ほどの大混乱はなかったと思いますが。
塔司 ――混乱などはしていないよ。セトラーはそれぞれ顧客を持っているから、何も変わっていない。残念ながら、混乱を引き起こす程の収量はない。
司会 ――では、我々は旨い米を食べたくても食べられないのですか。
塔司 ――だから、消費者の権利というのは唯一選択権のみなのだ。その権利を行使する場がないとなれば、各自考えたらどうです。
 ファームでは収穫量は、十アール当たり五百キロから六百キロだから、全体で百トンくらいしかなく、出荷については、それぞれセトラーが独自の販路を持っているということです。原須財団運営の最大の特徴は、それぞれの農家が独立しているところにあります。
 旧来のコロニー運動は、共同集団生活を基本にして全てが共有制度になっている場合が多く、それが理想だと思っているようだが、まともな大人が子供の合宿みたいなことをしたがるとは、とうてい信じられない。
 まあ、そんなことより、僕の最大の決断は、農業助成金を切ったことです。
 全て、財団法人・オパールライス・インスティチュートの活動範囲内で、言ってみればちょっと大きな家庭菜園と思って頂ければいいわけで、農水省とは関係ないし、世の中に影響を与えるほどの力は、とてもない。
司会 ――はあ、それでは少しプライベートな話を伺いましょうか。原須さんは、三十才で独身ということですが、結婚のご予定は……。
塔司 ――今のところありません。
司会 ――ホモセクシャルだという噂もあるようですが。
塔司 ――否定も肯定もしません。今時どちらにしても、それ程騒ぎ立てる程のことでもないだろうし、信じたいことを人は信じるものだから、その手のゴシップはどうでもいい。
司会 ――しかし、本当のところはどうなんでしょう。本当のことが知りたいのです。
塔司 ――本当のことは、他人には関係ないんですよ。本当のところが意味を持つのは僕と日常生活で係わる人間だけだ。男でも女でも、僕の考えや嗜好がどうであれ、他人には何の利益もないわけだから。
 もちろん、何の利益も恩恵も僕から受けていない他人に対して、自分が男であるということを主張しようとは思わない。それは相手にとって迷惑なだけだ。そういう点で誤解が生じるとしても、僕はそれほど無神経な男ではないし野暮でもない。ただ間違いなくフェミニストではあります。
 文化とは、どう表現するかという問題であって、本当のことはどうでもいい。
司会 ――視聴者は、ことに女性は知りたがっています、マス=コミに登場する以上は視聴者の知る権利に答えるべきだと…。
塔司 ――女性が知りたがっているなんて発言はよした方がいい。知る権利だなんて大袈裟な、のぞき趣味に過ぎない。誰も知りたがっていませんよ。
 あなたよりはるかに少ない、子供の小遣いのような出演料で、これ以上、あなたの仕事に協力することもない。時間になったことだし、これで失礼しましょう。

 原須塔司は席を蹴り、それはほぼ時間通りなのだけれどあわてた司会者の顔が映し出されたところで、意味のない映像に切り替わり、その後も番組は装われた混乱に、それと知りつつ居合わせた者は興奮してみせ、大した事でもないのに大事故のように、上擦った声で司会者は、いかにも動揺しているそぶりをやめようとはせず、その間にも原須塔司はすでに、愛車のジャガーで放送局から走り去っていたのだった。

 ハイウェイ61をくだり、都心から一時間ばかり、そこはまだ山地とは呼べず、さりとて住宅地として開発されるにはいかにも不便すぎ、真空地帯のごとく田畑が広がるばかりで、要するに、ただのどうしようもない田舎だった。
 オビ川が南下してから大きく西に向かって蛇行した先で、ルート61から枝分かれし北上する道と交差する。オビ川に架かった伯耆(ほうき)橋の彼方に、オパールドームが見え隠れしていた。
 川を渡って山へ向かえば、道路の右側はすべて山まで原須財団の所有地となっていた。財団用地と道路は賽(さい)川用水で隔てられ、敷地のヘリにはずっとフェンスが続く。金網の囲いは、年老いた世捨て人が数人の研究員とひっそり住まわっていた時代からあったのだが、木々が生い茂りつるがからみ、荒れるにまかせてあったから、金網があるのを誰もが忘れていたのだった。
 雑木林を切り払い、もとあった圃場(ほじょう)を整備し、真新しいフェンスを張りめぐらして、いよいよ新研究所が全貌を顕わした。それは農場や研究所というより、最新の大工場といった方が納得しやすい。新たなフェンスは、それでも以前の倍の高さはあり、用地内に雷池(らいち)という溜め池があることから、この金網はサンダーリミットと呼ばれているのだが、その為か村人の間では、あの金網には電気が流れていて三日に一度は犬や猫が死んでいるなどという噂が、まことしやかに囁かれていた。
 村人達は、祖父の研究所の時代から、原須一族をいぶかり疑い畏れていた。
 その昔、大地震があり首都は焦土と化して壊滅したとき、実業家の多くは千載一遇の好機とばかりに早くも復興景気を当て込んで狂喜乱舞した者だが、まだ十分若かったはずの塔司の祖父は都会を捨て、巷の喧噪をよそに、植物研究に没頭しだした。
 しかし、祖父の農園は、ひなの村人にはなじみのない西洋野菜や得体の知れぬ作物が稔り、先の戦争の折、日々の糧に事欠く時でさえ、祖父が村人にくばったセロリ、アンディーヴ、パプリカ、ピメントなどくせの強い洋菜類を一口、口にした途端、うしろを向いて吐き出し、二度と誰も農園の作物には手を出そうとはしなかったのだ。だが、その中で果実だけは例外になっていた。ガラス張りの温室で季節はずれの果物が枝もたわわに実る不思議さに、村人はその一点だけは祖父を尊敬した。
 ことにオランダ苺は歓迎され、病人が出ると、イチゴを食べさせてやりたいと無心に来て、いつからか祖父の農園は、ストローベリヒルと呼ばれるようになっていた。
 オビ川へ注ぐサイ川用水を逆に辿り、サンダーリミットに沿って一キロばかり行くと、いよいよ原須財団本部正門であるダダ門が見えてくる。滅多に作品を手放さないので幻の彫刻家と言われている、呂伝の五メートルにも及ぶブロンズの門柱が威圧する大ゲイトをくぐると、正面がオリザホールである。
 首都から戻った原須塔司のジャガーが玄関前のロータリーを半分左回りまわって、入り口に横付けされた。
 オリザホール支配人・大石と鯨丘夫人が扉の内側で待っていた。鯨丘夫人は、塔司の両親が死んだ後二十年間、原須家の家政を預かっており、原須家の実質的な主婦といえた。
 原須塔司は、大石に車のキーを渡し、靴音を響かせて書斎に消えた。塔司はシャツの襟元をゆるめ、机の上の書類を整理し始めた。
 大石の妻・ツツミと娘のスズキが、紅茶のポットに子供じみたお茶帽子をかぶせて、ワゴンを押しながら書斎に入ってきた。
 鯨丘夫人は、二人の女を無視するように声高に塔司にたずねた。
「お疲れでしょう。今日の会食は延期しましょうか」
 今しがたのTVの生放送番組の茶番劇には何も触れず、もう起こってしまったことより先の事が大事とばかりに、鯨丘夫人は今夜の会食をどうするか、思いあぐねていた。
 月に一度、ストローベリヒルの住人をホールのディナーに招くことになっている、今日がその日だった。会食の時以外は、広大な敷地に散らばっている人々が一堂に会することはほとんどなく、二十人程の親睦パーティーというところであった。
「かまわない。シャワーを使ってから、着替える」
 塔司は熱い紅茶をすすり、給仕しているスズキの白痴めいた天使のように美しい横顔を見上げた。たぶん、この女は何も考えていない。でなければ奇跡的ともいえる清らかさを保ってはいまい。それは、三十をとうに過ぎた女にとっては、反社会的でさえあり、いまいましいほどの純粋さと無垢といったものは、犯罪に等しい。だから、スズキの美しさには気品というものが決定的に欠けていた。
 大石一家は、代々この地で原須家に仕え、親子三人ずっと塔司の祖父の身のまわりの世話をしてきた。スズキはこの山で生まれ育ったことになる。
 塔司は、新研究所設立のため、首都の屋敷を引き払い、数年前にここに移り住んだ。大石一家とは、祖父の死以来ほぼ十年振りの再会であった。幼い時は、夏になると必ず、ストローベリヒルに来たものだが、両親の死後ふっつり訪れることもなくなっていた。小学校の夏休みに別荘に滞在中、スズキは林の向こうで母親の手伝いをし、いつも洗濯物を干していた。木々の間に張り渡したロープに、背伸びして爪先立ち、決まってまぶしそうに、白い綱に干し物を掛け続けている。その頃と、スズキは少しも変わっていないことに、塔司は苛立った。
 鯨丘夫人と見れば、ツツミとスズキ親子の一挙手一投足に、意地悪く目を光らせていた。夫人はこの二十年間、塔司とその妹コジマの乳母として、原須家を切り盛りしてきた。大学卒業と同時に、塔司の家庭教師として雇い入れられた。結婚して一度辞職したのだが、じきに離婚してしまいまた原須家に舞い戻り、前後して塔司の両親が事故死してからは、まだ小学生だった兄妹の親代わりになっていた。
 原須夫妻の死に際し、もとより農園の老人は当てにはならず、猛禽類のような会社の重役連中を相手に孤軍奮闘して、事後処理をすべてこなした実績は、十分に評価されていた。財団内では夫人は、塔司、コジマに続く地位を占めており、数年前にこの地に乗り込んできたときも、素早く実権をその手中に収めた。古くからいる大石の妻は、鯨丘夫人より十歳以上も年嵩なのだが、全く歯牙にもかけず、人間とも思っていないようだった。鯨丘夫人の判断は半ば正しく、ツツミとスズキは人間のようには思えない。貧しければ貧しいなりに豊かであれば豊かなように、室内の背景にしっくりなじんだ家具調度のように存在している。近代自我の権化のような鯨丘夫人が彼女等を軽蔑しきっているのは、当然といえた。
 首都にある屋敷から、ストローベリヒルに移って二年になろうとしている今では、華やかな社交界からも刺激的なビジネスからも遠ざかった寂しさを、夫人は彼等を見下すことで補っていた。
 ツツミの年下の夫・大石支配人は、いくらかましだと思われたが、所詮は人がいいだけの田舎者と断定している。好人物の大石支配人の存在が、地元の村人を懐柔するのにどれほど役立ったか、代々、原須家と村人の間を取り持ってきた功績は認めないわけではなかったが、それとて、人にはそれぞれ分というものがあると思っているので、鯨丘夫人は自説を曲げる気は毛頭ないのだ。
 大石が村人に受け入れられているという事実は、村人からさえ見くびられているという事であり、安全で恐るるに足らずと判断されてに違いなく、それ故、鯨丘夫人は、大石一家も村人も信用していない。
 時々は、雑用に村人を雇い入れることはあるから、就労機会の少ない村に貢献していることにはなるし、財団は寄付もしているので、村人は軽蔑しても、鯨丘夫人の良心は痛まない。
 夫人の目下の杞憂は、原須兄妹二人が二人共、一向に結婚する様子がないことだった。ストローベリヒルに移ってからはことに、首都のソサイアティからも疎遠になり、訪れる者も滅多になかったから、このまま二人はこの地に朽ち果ててしまうのではないかと、そればかりが、親代わりを自負している鯨丘夫人を悩ませるのだった。

 日暮れて夜になり、木々の若芽が風に揺れ、枝がぶつかり合う程ではないにしても、窓を開け放すと外気が入ってくるのがはっきりわかり、それはおおむね爽やかといえるのだが、少し冷たく湿ってはいて、一人で庭をそぞろ歩くにはまだ寒い、そういう季節だった。
 夜になると真の闇が訪れ、静寂の中にすっぽり落ち込んでしまい、少しの物音にも、息が止まるかと思うほど驚かされ、満月の夜は立っている物すべてが地上にくっきりと影を落とす。バイロンの『もう夜のそぞろ歩きはやめよう』(So we'll go no more a roving)という詩の冒頭を、うっかり声に出してしまいそうな場所だった。

 ストローベリヒルの住人達がちらほら、オリザホールに集まり始めていた。
 財団敷地内に点在する住まいから、遠くの者は車で来るし、近くの者は歩いて来た。
 オリザホールは入り口が西に面している。南北に長い三層の建物だ。ホールの北翼は研究員の宿舎になっている。ファクトリーから蓮(れん)川を隔てたホール側には、家財道具だけ置いておく者もあった。もちろん、外から通勤してもかまわないし、宿舎で家族と暮らしてもいいし、事実当初はそうしていたのだが、いつからか研究員はファクトリーに根をおろし、既婚者はすべて単身赴任という形に落ち着いた。
 最近では、ホール側の宿舎には人影もなく、薄暗い常夜灯だけが点っていた。
 ファクトリの者達は、いつでも好きなだけ研究に没頭できるので、研究室に籠もり切りになり、ホール側に来るのさえいとうようになっていた。中には家族の住む家にまったく帰らなくなった者もいた。一年振りに会った自分の息子が、二十五センチも背が伸びて口元にはうっすらと髭が生え始めてしまって誰がだれだかわからなかったという者もでる始末だった。
 夫が不在でも暮らしに困らないとはいえ、育ち盛りの子供に何年も会わないというのも、離婚したわけではないのでいかにもまずく、時々は家族が財団に面会に訪れるようになっていた。
 この状態が理想的と思われる形になったということであり、経済的にも十分保証されていたので、不満を持つ者はいない。大方の研究員の妻達は、子供を村の学校に通わせるのを嫌っていた。財団には何でも揃っているが、田舎で暮らすより、たまには旅行気分で夫に面会に来るほうが、はるかに賢明な選択だと思っているに違いなかった。

 オリザホールは西に向いている。
 大きなガラス扉の中へ入っていくと、床と腰板張りを大理石で覆われた玄関になっている。所々にアンモナイトの化石が見え隠れする大理石の床から、二階へ上がる大階段がカーウして続いていた。
 悪趣味とは思いつつも、政府のさる高官から寄贈されたオパール化した恐竜の化石の大きな塊が、他に置く場所もないので大理石の台の上に、本来はブロンズのオブジェが据えられるはずだった所に無造作に置いてある。
 前に見えるロータリの植え込みを通り抜けた西日が石の床の上にくっきりと黒い影を落とし、日射しが強すぎてぎらつき、それは木洩れ日などという甘やかなものではなかった。外で木々が揺れるなりに床の陰模様が動き、オパール化石が光り輝く様は、美しいと言えなくもなかった。
 玄関ホールからは大ホール、ゲストルームと続き、南翼一番端に大石一家が住んでいる。一番端ということは、真南ということで、一番いい場所かもしれないのだが、大石一家は一番目だたない隅にひっそり暮らしているつもりだった。
 南翼二階には、原須コジマと鯨丘夫人の部屋があり、三階に東史が居住している。その三階中央部から、オパールドームとファクトリーへ行く連絡橋がレン川の遙か上方に架かっている。オパールドーム側へ行くには、どうしても塔司の部屋の前を通らなければならない。塔司の部屋の通路側の外部はガラス張りのギャラリーになっていて、有名無名の画家達のタブローで埋め尽くされていて、そのおびただしい肖像画群の前を通ると誰もいない時でも、誰かが監視しているような錯覚に促われる。三メートル程の川幅のレン川はそう深くもなく、本当に渡ろうと思えばどこからでも渡ることはできようが、建物の北に資材搬入用の設計者の名を冠したホートン橋が、南端には歩行者専用の小さな橋が架かってはいるが、通常は鉄の門扉で堅く閉ざされて、鋳物の透かし模様の優雅さとは裏腹に人を冷たく拒んでいる。
 川の東と西をつなぐのはオリザホール三階通路だけだという事実が心理的圧迫となり、財団内部はレン川によって厳然と二分されていた。
 津久南山から南下した蓮川は、ホールの先へ行って緩やかに東へ曲がりオビ川に注いでいる。山の上までレン川の東側は全部ファクトリーの管轄になっていた。工場長の梶は、長い間祖父の助手を続け、もう四十年近くこの地を離れたことがなかった。
 塔司は、本来この土地は梶と大石一家に与えるべきだと考えていたので、梶等研究所の自治は大幅に認めていたし、研究の自由は保障していた。梶は祖父のために、一生を犠牲にしてしまったようなものだったから、それも当然といえた。
 祖父の代からの研究員は梶と檀の二人だけだった。檀は若くして物した博士論文が大変な評判となり、一時は植物生理学会の寵児といわれたものだったが、何があったのか、研究所に入ってからは外部との一切の関係を絶ってしまった。戸籍上では妻がいるし、扶養手当が計上されているが、二十年間、梶さえ檀の妻を見たことがない。かって、ニューアカディミズムの旗手と持てはやされた檀も、完璧な中年になり、梶はすでに老人に近かった。梶と檀の二人が中心になって、新人研究員を集めることになったのだ。科学専門誌に広告を出して研究員を募集したところ、出世の望みを絶たれた大学の助手や講師があまたやって来て予想外の反応となった。
 現在、梶はもう大分年を取り別格というところだが、年を取ったといっても、他の研究員と比べてのことだった。だが、実際梶は年齢よりも老け込んで見える時もあり、実務上は、檀が中心になり、梶が全体をまとめるといった役どころになっていた。
 新研究員の中で、檀の片腕となった槙も、大勢の応募者の中の一人だった。
 学生数の減少により、学校の教職員はだぶつき、折からの経済不況で、大学や研究機関はどこも採用を手控えていたし、たまにある勤め口は、海外勤務と決まっていた。昔と違い、海外赴任を希望する者などいなくなっていた。
 槙に至っては、十年以上も国立大学の助手の地位に甘んじていて、それでも定員の空きがあったからまだいい方で、行き場のないオーヴァードクターが、よくもまあこんなにいたものだと思うほど、面接に押しかけたものだった。
 塔司はストローベリヒル開設に先立って、研究所を新体制に切り替えていた。研究所の基礎研究は地道な努力と周到な準備がいるし、新財団の建物の建設計画も三年の月日を要した。研究所と財団本部の体制が整った後、農業入植者を受け入れたわけだ。
 塔司は原須財団再生へ向けて邁進した。新たなメンバーが加わって刺激を受けた『眠れる獅子』檀は、本来の持てる力を発揮し始め、研究の成果は着実に上がり、特許件数も随分増えた。塔司の祖父は数多くの特許を持ってはいたが、すべて実用には程遠い物ばかりで、財団の収支には何の貢献もしていなかった。
 研究所の生物学者の中にあって、槙だけは電気機械設備の部門の主任として、工学部から採用されたのだった。入所以来、研究を重ね、既に堆肥製造プラントを開発、完成させていた。
 このパーフェクトラインと呼ばれるプラントは、本来家畜の糞尿から堆肥を作る目的で開発が進み、多くの畜産農家へ福音となったが、財団では動物の研究はしておらず、畜産に手を染める者もいないので、更に堆肥プラントは研究改良された。そして遂に生ゴミ、汚水、排水あらゆる有機物に対応できる発酵釜が完成した。発酵熱は建物の冷暖房に利用され、発生するメタンガスなどの炭化水素は燃料に、アンモニアガスは土壌中和剤や肥料用に再利用されて、完全有効利用が可能となった。
 パーフェクトライン=完全閉鎖型発酵炉は研究所裏に、巨大な胴体を鉄骨に支えられ、休みなく低いうなりを発し続ける。
 この堆肥工場からは、クリーンコンポストという商品名で有機肥料が出荷され、既に好評を博していたが、更に、窒素(N)リン(P)カリウム(K)の含有バランスを調整した、スーパー・クリーンコンポストが新開発されて、日夜増産に追われていた。
 加えて、オパールライスの種籾を地元の農家にだけは売るようになり、村長以下村人はオパールライス研究所の存在を公認することとなった。かってのよそ者に対する警戒と敵意は、いつからか卑屈であいまいな微笑に変わっていった。けだし、その為、村では折あるごとにあらぬ噂が流れた。研究所の堆肥には、犬猫の死骸は言うに及ばず、レン川に浮いた腐った魚から、ありとあらゆる動物に至るまで、その生死さえ問わず手当たり次第に入れているとささやかれ、人の死体を投げ込むのを見たという者さえ現れる始末だった。
 投入口は二重ハッチになっており、外部から見えないから、見たというのは嘘なのだが、村人は発酵釜の上に付いている点検口のいかめしさに恐怖を感じてはいただろう。
 槙が開発したプラントは、汚物を分解するのに微生物を使う従来型と違って、特殊な触媒を使うのが画期的だった。微生物を用いる場合、堆肥になるまでかなりの時間を要し、また開放型の場合は悪臭もひどかった。
 だが、この堆肥プラントは、一度稼働し初めて一定以上の温度になれば、あとは次々と連鎖反応を起こして分解が進む。一度臨界点に達すれば、分解は特殊触媒によって加速度を増していく。発酵炉は永久に閉ざされていながら、あらゆる有機体を呑み込む自立運動系さながらに円環構造をなし、尾をはむ蛇ウロボロスのごとく、釜の中はふつふつとガスがたぎり続け、一切を拒んでいながらすべてを呑み込み、異臭一つ外へ漏れることはなかった。発酵炉は確かに、ブラックホールのように目に見えぬ強烈な吸引力の磁場を持っているように思えた。
 槙は、パーフェクトラインで分解できない物はないと豪語し、手始めにオパールライスと古米を交換する催しを思いつき、塔司に提案した。持ち込まれた不良米や輸入米を、迷わず発酵釜の投入口にたたき込んだ。
 塔司を先頭に梶、檀、槙の挑発的な行為が報道され物議をかもしたものだったが、塔司は何らひるむことはなかった。消費者が望まないものを買わざるを得ないでいるという事実で十分であるし、生産調整の為なら農作物を破棄するのはよくあることだし、新食糧法に移行しても商品としての米の不透明さは大差なく、これくらいの示威行為は、消費者のライトとして当然といえた。
 だが、ボストン・ティーパーティー以来、戦術としては案外古典的でつまらなかったと、塔司は少し後悔した。『アフリカの飢饉に対して心が痛まないのか』という見当違いの非難が、しかし実際は一番多かった。とりあえず、消費者の権利とアフリカの飢饉は拮抗しない。
 その騒ぎの最中、アジアの広大な稲作地帯を持つA国大使から抗議があったのだが、アフリカの飢饉に対しては、アジアの米生産国こそ、十分に抑圧的なのだった。
 米作りを、今一番必要としているのは、飢饉にあえぐ当事国である。米ほど反当たり収穫量の多い作物はほかになく、アフリカに米の自給体制ができ上がれば、飢饉の問題など、たちどころに解決してしまう。治水・灌漑さえすれば、条件によっては二期作でも三期作でも十分可能である。
 ところが、アフリカに飢饉がなくなれば、世界の穀物相場は大暴落し、相場を維持するためには危機が必要となり、アフリカ諸国は米を作ることができない、それが国際社会ということになっている。
 加うるに、穀物相場を全体に底上げし、高値安定を図り先進国の農業が生き残るためには、日本の農業をつぶすしかないということになる。日本が全食料を輸入に頼るようになれば、農産物の価格はたちまち跳ね上がり、アメリカとEUの農業は持ちこたえられる。アフリカと日本の農業を潰すことが、アメリカの食糧戦略というわけだ。アメリカのアフリカ諸国に対する緊急食料援助というものは、第二次世界大戦後の日本に対して行われた通り、あくまでもアメリカの食糧政策の一環としてあり、アメリカが世界だ、という信仰に近い確信が、アフリカでははるかに露骨に現れていた。食料援助が、辛うじて残っている農業を破壊し、現に援助なしでは立ちゆかないという悪循環が続く。大量の安い援助物資が流入すれば、ほそぼそと農業を続けようやく稔った作物は思うような値段では売れず、自立の努力を放棄した農民は、土地を棄てて都市のスラム街へと消えていくか、難民になるだろう。アフリカで作ることが許されるのは、さとうきび・ピーナツ・綿花といった不安定な商品作物で、米・麦・とうもろこし等の主要穀物は作ることが許されず、しかも単一耕作で、危険分散などもっての外である。
 主要穀物の生産分布地図は強固に完成しており、後から食い込むことはできない。アメリカの世界食糧政策に反すれば、過酷な制裁が待っていた。
 そういう事情に、原須財団は責任があるはずもなく、塔司は迷わず、ファクトリーの中庭に野積みされた不用米を堆肥化する許可を出したのだった。
 いずれ、アメリカの企業との間で、農産物や遺伝子組み換え技術の特許をめぐり、紛争が起こるだろうとの予感はあった。すべてを特許化していくというのがアメリカの農業戦略になっていたから、それが塔司や研究員の苛立ちを煽っていたのかもしれぬ。
 誰も食べない輸入米や、白い未成熟米を呑み込んだ、パーフェクトラインの銀色のタンクが夕日に輝く。プラントの最終ラインに残るエチル・メルカプタンなどの悪臭の元になる揮発物質が、それも利用できなくはないのだが、点火燃焼トーチから吹き出し、夜ともなれば、星空に青白い焔を上げ怪しく燃え続けていた。
 あらゆる汚物を食い尽くし、熱い光を放つ堆肥プラント・パーフェクトラインは今日も、次々とスーパー・クリーンコンポストを生み出していた。

2章 オパールドームのほうへ    

 オリザホールの三階通路を抜けると、目の前に全面をガラスに覆われた水晶宮が現れる。
 これがオパールドームである。左へ伸びる廊下はファクトリーへ通じている。
 ストローベリヒルの米が、オパールライスと命名された理由は、世間では、虹色に輝くドームと、そこで生産される白く半分透けてしまいそうな良質米を、蛋白石・オパールになぞらえたと思われていたが、実はそうではない。
 稲作におけるオパールとは、イネ科の植物だけが持っている、プラントオパールのことだ。この植物珪酸体は水田遺跡から発掘される古代米の考古学的年代測定にも利用されているが、水田稲作に重要な役割を果たしてきた。伝統的な耕作法として、稲刈り後の田圃に藁のすき込みが行われる。稲藁の有機物は肥料となる一方、ガラス質で安定しているプラントオパールは、土壌自体の地力・保肥力の向上に役立つ。今日、鉄材や石英を用いれば、土壌改良は容易とはいえ、試行錯誤を重ね経験的に確立された在来農法にも見るべき点はあった。
 プラントオパールはイネ科の植物固有のものである。葉にある比較的大型の、機動細胞珪酸体を分離して、顕微鏡で覗くと、そのまばゆいばかりの輝きに圧倒され、目が眩む程だった。
 オパールライスの研究は、ずっと以前、祖父の代から始まっていた。無論、品種改良によりモミ・ワラ比の高い効率的な多収量で最終稔実の確かな品種を作り出してはいたが、実はオパールライスというのは、最終産品としての米ではなく、トータルな稲作技術体系プロジェクトを指していたのだ。
 同じ種を同じように播いても、同じように成育するとは限らず、植物は気まぐれに諸相を表した。品種改良して種だけ作ればいいというわけではなく、この点で塔司は、アメリカの特許構成にも、勝算は見いだせるかも知れぬと考えていた。
 ストローベリヒルは卑小なコミュニティ運動などでは更になく、では何かと言えば、塔司にもしかと返答できぬことだったが、まずガラスのドームが先にあったのだ。
 偶然に、通りかかった植物博覧会の跡地で、解体を待つばかりガラスのパヴィリオンに、ふと目が行ってしまったのだ。
 塔司は、これで何かを、できそうな気がした。
 博覧会の前評判では、クリスタルパレスの再現などと盛んに宣伝はされたものの、今時特にめずらしい建物でもなく、払い下げの競争入札会では、思いがけない程安く落札できた。というより、塔司は事前にガラスドームの引き合いがないだろうことを知っていた。手直しはしたものの、オパールドームは世間で騒がれたほどの大した物ではなかったのだ。
 しかし、ドームの前に立ち、ひとたび温室の扉を開けた物は誰でも、その草いきれに茫然とする。ガラス温室の中は、一面緑の田圃が広がり、規則正しい水音が聞こえる。
 ドームは北側半分が、工場か体育館のように、二階部分がついていて、くまなく光が届くようになっていた。
 一階の実験田は、稲が平らな絨毯のように緑の畝がきれいに並んでいる。それとは対照的に二階のギャラリーは、雑多な植物が無秩序に育ちにぎやかなことだった。
 夏野菜の葉が生い茂り、世界中のイネのあらゆる品種がそろっていた。ことに目を引くのは、野生稲オリザ・ペレニスが五メートルにも伸びた、大水槽だ。これらの浮き稲は、水深によって稈長(かんちょう)を変化させる。本来インディカ種は沼地等に成育する長稈種である。近年は短稈に改良されて『緑の革命』などと大袈裟に宣伝されたものだったが、インディカ種は水深に合わせて茎がどんどん長く伸び、成熟すると倒伏するのが本来の姿である。
 かって、中国雲南省からはるかメコン川の下流デルタまで、オリザ・ペレニスの大群落があったという。
 浮き稲の大水槽の水を、強制循環させているモーターの音が低く響いて、うしろの矮性の果樹の葉がゆれる。塔司の祖父が最も心血を注いで取り組んでいたのは、矮化品種の研究であった。今日では、作業能率や生産コストの上から、当たり前になっている矮化栽培を、はるか昔から一人でこつこつ考え出し研究してきた。それはなにも先見の明があったわけではなくて、祖父はガリヴァーのように、全世界をその手中に掌握する巨人になる、という妄想による為らしかった。
 ノアが方舟に乗せた果樹のすべてが矮化樹となって、不釣り合いに大きな実をつけた枝が重く垂れて、本来なら大木になるはずの木が、せいぜい大人程の樹高にしかならず、どこからでも簡単に実をもぐことができた。
 祖父の矮化樹は矮性などという生やさしいものではなく、作り物じみたミニアチュールのようであり、病み衰えているのに色つやだけは、どぎついほどに光り輝いて見えた。
 二階へは、三ヶ所に階段が設けられており、そのうちの真中は、白い螺旋階段で明らかに実用目的をはずれていた。
 実のところ、オパールドームは見学者ように建てられた、極ありきたりの温室であり、また祖父の研究を保存する博物館といえるものだった。祖父の研究は、好事家(こうずか)の域をそう越えるものではなく、生物学上のというより、八十年間の蓄積と蒐集に対する、博物学高踏的興味で見学に訪れる者が多かった。
 予約さえすれば誰でも見学でき、二年前の華々しい開所時こそ、休日には行列ができる程だったが、今では一般見学者はいなくなった。
 ドームは、塔司の妹・コジマの所有になっているのだったが、植物の管理はもっぱら工場長の梶の役目となっていた。温室内は自動化されているから人手はいらないのだが、村のおとなしそうな青年を雇い入れ、あれこれ指示していた。この無口な青年からは、人格というものが感じられない。ただ黙々と、売るわけでもなく、誰が見るでもない花々を世話し、茎をはいまわるアリマキを一つ一つつぶしたり、どこからか入り込むナメクジをさがしたりしているのだった。

 オリザホールの三階通路を抜けると、目の前に、花々が咲き乱れるオパールドームが見おろせることだろう。温室への扉は開けずに、廊下を左へずんずん進めば、大きな鉄の扉が進路を塞ぐ。ここから先がファクトリーだ。
 IDカードがなければファクトリーに入ることはできず、出入りできるのは研究員と原須兄妹に限られていた。
 ファクトリーはほぼ方形の建物で、図面によれば、真中があいて中庭になっているはずだが、ファクトリーの中庭を見た者はいない。塔司も実際にあるかどうか知らなかった。知っている者がいるとすれば梶一人しか考えられない。
 ファクトリーは今、分厚いコンクリートのトーチカさながらに沈黙し、塔司さえ細部までは把握しかねた。
 ファクトリー内部は各セクションに細かく別れ、ほんの少し分野がずれただけで、あまりに高度に専門化されすぎている為に、となりにいる研究者さえ何をしているのかわからないということは良くあることだった。
 ファクトリー全体を掌握しているのは梶だったが、今では工場の全体像とはそもそも何なのかわからなくなっている。梶は古典的な植物学者といってよく、若手の分子生物学者や生化学者、生命工学のフェロー一人一人が何を考え、何を行おうとしているのかよくわからなくなっていた。

(第二部 3章につづく)

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