オパールライス戦争
     【第二部】

古井みち子 作 (無断転載を禁じます) 

3章 セトラーの晩餐     

 日が落ちてあたりが暗くなると、ダダ門に照明が入り、あちこちに点在する屋外灯も一つまた一つと点り始め、するとたちまち本当の夜になる。
 人々は、ちらほらオリザホールのロビーに、集まり始めていた。
 めずらしく盛装したセトラー達が、ワイシャツの衿を苦しそうに、指を指し入れて緩めていた。ボウ・タイなど結んだことがないので、ほどいてもう一度結び方を確かめ合ったりしている男達に引き換え、妻達は堂々としている。女達は着飾る機会などそうないことなので、この時とばかりに我こそ主役だといった、主張と確信に満ちていた。
 セトラーの中心的存在の鮫島の妻・ナツメも、素人コーラスのおさらい会のような黒いヴェルヴェットのロングスカートと、絹の生(き)なりのブラウスを、くずし過ぎず大袈裟過ぎず、さりげなく着こなしていた。
 ナツメの小学生の息子、モリとシガは一番最初の晩餐会こそ参加したものの、ホール内を走りまわって奇声をあげ騒いだ為に、鯨丘夫人の逆鱗に触れて、あっさり追い払われ、それからは夫婦だけの出席となっていた。
 オリザホールの前方、はるか南にセトラーの宿舎グリーンガーデンがある。ホール玄関前から、道が一本南へ真っ直ぐに伸びて、宿舎へ向かい、両側にナトリウム灯がオレンジ色の光を放ち、その下に立つと人の肌は補色作用によって、灰色の死人の顔になった。
 その道を上から見おろすと、飛行場の滑走路の進入灯のように見え、道を歩いていて、ふとそのことを思い出すと、つい駆け出してしまいそうになる程、道は真っ直ぐで、人気はなく、闇は深い。今日は田圃の照明は消えているようだった。
 グリーンガーデンは、プレファブ・ユニットを十個ばかり重ねた、積み木のような建物だった。オリザホールと比べれば見劣りするものの、町中にあれば新家庭用の賃貸アパートメントとしては上等の部類だったし、なにより家賃や諸経費がかからないのが有難かった。入所時に二千円支払ったが、住宅を買うことを考えれば、安いものだった。
 グリーンガーデンは二階建ての、側面がその名の通り緑色をしている建物だった。一階ユニット二つ分が娯楽室兼集会所になっている。ファームはセトラーの自治運営が基本であり、塔司もコジマも鯨丘夫人もグリーンガーデンに足を踏み入れたことは一度もない。集会所で行われる、セトラーの達の親睦パーティーに招待されてはいるのだが、ついぞ出席したことがなかったのだ。
 一階には、鮫島家、白鳥家と独身の宗近が住み、二階は警備保安担当の門衛、鬼頭等の部屋があった。農繁期には、ヴォランティアの学生や主婦の援農隊が寝泊まりしたが、原須塔司はそれらには、一切関心がなかった。セトラーはそれぞれ、消費者サークルやエコロジークラブなどのネットワークを持っているようだった。
 塔司はセトラーを募集する際に、農業に特別の思い入れを持っている者を、極力除いた。職業に貴賤はない、というのを信じれば、農業がことさら尊いわけでもないし、ありふれた仕事の一つに過ぎぬわけだし、農業が特別厳しくつらい労働であるわけでもない。農業自体が他の肉体労働と比べて、特に過酷であったわけでもない。
 かって農民が貧しさに苦しんできたという事実は、労働作業の問題ではなく、政治の問題であった。農業社会から初期資本主義へ移行する資本の蓄積過程で、農村が収奪の対象となるのは理の当然というものだったのだ。現在その中心をサラリーマン達が肩代わりしているという事も曖昧になるほど、貧しさは遠のき、決して豊かになったわけでもないのに、切実さだけが薄れていく中で、農業に対する過剰な美化・特別視は、犯罪に等しい。
 日本の農業が存亡の危機にあることは確かだったが、だからこそ、先につまらぬ望みをつなぐのではなく、現在の自由なビジネスとして、農業が初めて姿をあらわしたのではなかったか。
 塔司は、だからどうしようという気も野心も持ち合わせてはいないが、広大な土地を所有していたという幸運を除けば、五・六年で採算ラインに達するはずだったし、現在はプレミアムライスの名前だけが先行している格好だが、日本の米作りがなくなるとは思っていない。
 日本の農民のほとんどが、第二種兼業農家であり、かっても農業だけで生計を立てていたわけでは決してなく、兼業が日本の農業の伝統という見方も成り立ち、大規模化機械化ばかりを目指しても、合理化や経費節減にかえって逆行するばかりである。日本の農家の所有する機械の稼働率は極端に悪く、何の為の機械化なのか誰にもわからない。
 日本の農地は、近世幕藩体制を支える為、小農自立政策によって細分化された土地を原型としており、大規模近代化ではなく、小規模で成り立つ農業が本来的な姿であったろう。
 しかし、どう考えてもそれほど明るい見通しは立てにくく、簡単に解決策が出てくるものでもないので、塔司はファームには一切口を出さないことにしていたのだった。
 だが、一戸当たりの農地は広くもないが、セトラーは何とかやっていくだろうという確信は持っていた。安い輸入米が入ってきても、日本人の口に合う米はそう簡単には作れない。作ったとしても価格は上がる。しかし実のところ、食生活の変化で米の消費自体が減っているので、消費者にとっては、価格というのは以前より重要ではなくなっているのだ。タイ米やオーストラリア米、アメリカのカルロースがいくら安くても、意味はない。風説では、かって東南アジアへ密かに種籾を持ち出し、以前から細々と在留邦人向けに銘柄米を作る、ライス・コネクションともいうべきものがあったらしく、その末端価格は日本と変わらないといわれていた。日本の米は確かに高いが、日本は何もかも高いのだ。アメリカのカルロース産地とこしひかり産地の土地の価格差は一説によると三十倍と言われていた。とすれば、日本の農産物が高いのは至極当然といえ、高くとも、植物は土地に根ざすものであり、穀物は文化の礎(いしずえ)ということになっているので、安易に変えるわけにもいかず、変わったとしても、その変わり方は一様ではないはずだった。
 食物に対して人間は、実質よりも心理的にはるかに保守的らしいので、変化はしてもかなり迂回を伴うということだろう。
 輸入食品に囲まれ、庭いじりすらしたことがなくとも、土に対する信仰は止み難く、その根拠となっているのが、植物の多様性ということだった。植物は、同じ品種を別の土地に移せば、同じように育てても、同じにはならなかった。その驚きと経験が、土地の神話を生み、民族の記憶となった。と思い込む所以であったろう。いくら遺伝子工学が発達し、ゲノム解読競争が加熱しようと、人間の考え出すことなど、植物群のフレキシビリティに飲み込まれてしまうに違いなかった。
 塔司は、アメリカの巨大農産物開発企業Zジーン社やアグリ・コマンド社が、いくら遺伝子組み替え技術を誇ろうと、原須財団に少しばかりは勝算があると踏んでいた。植物は土の上に植える限りはドメスティックな物であり続ける。工業製品並みの生産管理をしない限り、同じ物を作っても同じ物はできず、たといそうしたとして、日本では主要穀物において採算ベースに乗るとは思えなかった。
 米は更に、土だけでなく水が最も重要にかかわってくる。味のいい米は、いい水を大量に必要としている。実に、米作りは水管理にほかならず、水田で水耕栽培することによって連作障害を起こさず、通年安定した生産が可能となったのだ。こうして、米は貨幣として流通し、上代から続く出挙(すいこ)銭や、近世に至る米切手といわれる手形を見るまでもなく、米は金融の基盤となったのだった。
 農民は、かって米を食べることができなかったと、その貧しさが強調されるのだが、水田を開発し維持管理することは、多額の設備投資をするということであって、商品であり貨幣である米には手を出さないのである。元来、主食は陸稲(おかぼ)を含む雑穀であった。
 流通機構は未発達で、コールドチェーンもない時代であれば、商品作物は、米か菜種か、ごく限られている。
 だからこそ、七世紀後半の、大化の改新における律令国家の、班田収授の法の制度が意味を持つことになる。律令国家時代に、それほど水田が発達していたわけでもなく、実際には口分田(くぶんでん)というものは、制度であり管理基準として機能したと、考えるのが妥当であろう。
 実に水田は基準として、十分に機能する。水田は水によって常に自然に土壌改良が行われ、水が栄養分をもたらし、特定作物が排出する残留物を洗い流して、連作が可能となる。
 上代から中世紀にかけては、反収は七斗(約百s)といわれるが、近世に入って全国平均で反当たり一石三斗(十三斗、百九十キロ、一俵は四斗=六十キロ)の水準を維持し続け、幕藩体制の基礎を支えてきた。現在の改良品種があったならば、無肥料で四百sは収穫できたことだろう。
 米ほど栽培技術が確立され、容易に多収を望める作物はほかにはない。米の栽培はその字の示すごとく、八十八回も手が掛かる大変な労役ということになっているのだが、八十八回もか、八十八回しかかは、誰も考えたことはないのだ。八十八回という作業工程は決して多いとも言えず、むしろ八十八回手を掛ければ誰にでも米作りができるという完全マニュアルだと解釈すべきであり、農事暦に従えば無事四ヶ月で米はできるのだ。
 毎年確実に容易に一定の収穫量が得られるからこそ、米は貨幣となった。律令国家の時代は、水田は川筋のごく限られた場所にしかなかったにもかかわらず、水田は価値基準になったのだ。
 米が主食になったのは、近代に入ってからのことであり、日本人の常食は長らく雑穀であった。米の生産量が増えるのは、大規模な灌漑工事が可能となり新田開発が盛んになる江戸時代も中期以降のことである。稲作の歴史が二千三百年である、いや三千年である、などという言説は、現在の米とは何の連続性もなく、考えることも検討する必要もないことなのだ。二千三百年間稲作の伝統は脈々と続いているという詐術に巻き込まれてしまうことになる。
 毎年必ず一定の収益が上がる、この連続性永続性が、米をめぐるセントラル・ドグマを生み出し、米を作ろうが作るまいが、どれだけの水田があろうとなかろうと、米の再生産過程は無根拠に民族的記憶などと言われて、ゆるぎないのだ。

 ストローベリヒル・ファームに入植を希望する者は大勢いた。
 塔司はセトラー選抜にあたって、できるだけ違ったタイプの者達を集めようとした。それは危険分散という意味からも妥当と思われたし、各戸独立採算なのだからまとまりが悪くとも問題はないし、ファーム全体がまとまる必要もないし、財団としては入植者がまとまらない方が都合はいいはずだった。
 一番最初に決まったセトラーが、鮫島だった。
 鮫島は、おそらく一番典型的な無農薬有機農業実践家だった。夏期は米を作り、冬季は野菜と小麦を手掛ける。小麦は既に、都市の老舗うどん屋に卸す契約ができており、米も入植以前から消費者との間で栽培契約を結んでいた。夏休みには、そうした消費者有志中心に首都から援農隊キャラバンが大挙して押しかけ、グリーンガーデンの空室は、家族連れや学生達でいっぱいになった。
 鮫島は大学を卒業してから、成績がぱっとしなかったこともあり、就職する気にもなれず、気軽にその日暮らしを続けていた。その頃、学生時代からずるずる一緒にいた女の親が、死に際してわずかの農地を残していたことを知るに至って、田舎暮らしもいいかも知れないと考えた。自分の生まれ育った土地であったなら、おそらく行きはしなかっただろう。
 農業の経験のない鮫島ではあったが、過疎化の進む山間僻地では、若い男女は下にも置かぬ歓迎ぶりで、都会の落伍者は一躍村の希望の星となった。妻となった女の土地以外にも、働き手がなくなり放棄されたままの田畑を借り受け、徐々に規模を拡大していった。
 ようやく軌道に乗りかけた頃になって、村の上の山にゴルフ場建設計画が持ち上がり、何の地場産業もない村であってみれば、人々は一も二もなくとびついた。
 鮫島の無農薬有機農業を、コミュニズムと同一視する老人達は、いっときは鮫島家を歓迎したものの、次第に胡散臭く感じ始めていたところへゴルフ場建設の話が舞い込み、もとより鮫島は川の上流が汚染されては無農薬栽培をしても意味はなくなり、当然ながらゴルフ場計画には反対だったわけだが、以後村人の態度はにわかに硬化し、よそ者の鮫島を排斥しかねない勢いになっていった。村人達が目先の利益だけに汲々としていたとしても、先のない老人達ばかりなのだから責めることはできず、鮫島は、前途のない人間を前に、将来の夢を語ることはできなかったのだ。
 そうした折、原須財団の農場入植者募集のパンフレットを鮫島の前に差し出したのは、妻のナツメのほうだった。生まれ育った土地とはいえ、今では取り残された老人達だけになり、苦労したことを売り物にし、止めどなく愚痴を掻き口説く彼等に、ナツメは辟易していた。田舎でのんびり暮らす老人には、都会で神経をすり減らし過酷な管理社会に翻弄される生活など想像すらできず、都会では毎日おもしろおかしく暮らしていると信じて疑わないのだった。
 ナツメは、父祖の土地を老人達諸共、見棄てることにしたのだ。新興成金ともいえぬ小金持ちがゴルフクラブを振り回す村に、未練はなかった。
 ゴルフ場のスタンダードというのは、いつどこで出来上がってしまったのだろう。雨の多い低緯度の日本に、欧米式ゴルフコースをそのまま導入するのは土台無理な話なのだが、無理を通して緑の芝生で丘陵を覆い尽くし、ついに日本式コースを生み出すことはなかった。
 昭和30年代の高度経済成長は、直輸入ゴルフコースを量産し、文化的衰退を実体化して見せた。素人がツアートーナメント・プロと同じ道具を使い、同じコースを回ることを目的にし、それが豊かさの証だと錯覚して、誰もおかしいと思わず、土地と文化はずるずると荒廃していくばかりだった。
 ナツメは、変わりゆく村の風景を見ながら、心底村人を軽蔑した。除草剤や農薬で汚染された川の水は、最早使い物にならなかった。
 鮫島は、ストローベリヒル入植に当たり、一番問題にしたのも、従ってレン川の水源のことだった。入植者選択の席で塔司は、鮫島が川の水質についてあまりしつこく聞くものだから、こう言わなければならない程だった。
「そんなことは言うまでもない。津久南山は原須家の持ち山だ。水源のことを考えて、祖父も数ある所有地の中から、ここを植物研究所に選んだのであろう。山の管理は別途に募集している。面接で選ぶのは、私のほうだ」
 塔司は、少し思い詰めたふうに鮫島に、皮肉を返した。
 鮫島は、ストローベリヒルを昔日のコンミューン運動のようなものだと思っていたのだが、初めて目にした農場も原須塔司という人物の印象も、想像していたのとひどく違っていた。無農薬・有機栽培の基本を守りさえすれば自由に独立経営できるというので、集団農場を予想していた鮫島は、少し意外な気がした。妻のナツメのほうはむしろ喜び、田舎の濃密な人間関係に窒息寸前だったので、きれいな空気にいい環境、生活は案外便利だし、希薄な人間関係に充実した労働、ファームの生活は、ほとんど理想的と思われた。

 セトラーが入植して二年になった。
 水田はかって塔司の祖父の時代から、実験農場として使ってきたのでよく肥えている。
 祖父は近隣の土木作業現場をまわり、地方から出稼ぎにきている農夫を選び、下働きに使っていた。彼等にしても、きつい土木作業より慣れた畑仕事の方がはるかに楽だったし、何より農業労働者としては破格の手当が出たので、依存はなかった。飯場から飯場へと渡り歩いてきた農夫達は、祖父の農場でやっと落ち着いた暮らしを始めた。彼等は家族を呼び寄せて、すっかり村に同化していたが、そういう者達は今でも人手が足りない時は、働きにきていた。もっとも、他の村人も臨時に働き手を募集すれば、これといった勤め口のない村であれば、現金収入を求めて、すぐに誰かしらやってきた。それらの者達は大抵まだ多少の体力は残っているが、他の仕事には最早なじめぬといった年になっており、村で原須財団を中傷している張本人なのだが、現金収入の誘惑には抗しきれず、不平不満を並べつつ働き、財団の窮状を見かねて仕方なしに協力するのだという姿勢は崩そうとはしなかった。
 塔司はそれでも、村人達と完全に乖離(かいり)してしまわないよう、そうなっても財団は困ることはないのだが、村人達を否定するでもなく肯定するでもない関係は保っていた。ファーム開設工事に際しても村人は大量に雇い入れられ、用水路を通して土を抜き土地改良して、新しい水田を拓き完全な圃場が準備された。
 塔司は一年目の収穫には期待していなかったのだが、案に相違して米は五百キロ近くもとれた。
 入植者はそれぞれ独自の栽培方法を採ってはいるが、田植えの苗は細植え、疎植という点では一致していた。細植にすると株わかれする分蘖(ぶんけつ)が盛んになり、疎植にすれば風通しが良く稲は健康に育つ。増収を狙う余り栽培密度を上げると、病害虫発生や根ぐされの原因になり、農薬づけの悪循環に陥ることになった。
 そして、一般的な水田は水を五センチメートル程度にしているのだが、ファームでは概ね十五〜二十センチの深水にしていた。冷夏が続く年は、土用干しと称して中干しをするのが普通だが、かえって保温のためには水を落とさないほうがいいし、何より窒素肥料を与え過ぎないことが肝要だった。
 しかし、農業に限らず何につけても、じっと待つということは耐え難く、つい無駄なことをしてしまうのが常だった。本当は雑草を取るだけで何もしなくてもかなりの収穫はあるのだが、洪水のように押し寄せる情報にせき立てられて何もせずにいられず余計なことをして失敗するというのは、農業が特別な産業では全くなく、誰も彼も置かれている状況は同じだということを表しているに過ぎなかった。
 セトラーの姿勢は大筋では一致していた。
 しかし、独り者の宗近は鮫島から見ると、気楽な遊びか趣味の農業としか思えない。
 去年宗近の田は、鯉、鮒の放流水田にして、魚が飛び跳ねていた。田のあちこちに魚溜まりと称する穴を掘り魚の住処を作ってやれば、あとは魚が泳ぎまわるので草も生えず、魚に宗近が餌をやらずとも、鮫島の子供達が鯉にいろいろ撒いているし、水中のプランクトン・ミジンコで十分育ち、魚の排泄物は肥料となる。収穫前に落水すると四ヶ月間、水田を泳ぎ丸々と太った魚がはねまわって、漁獲りは宗近の友人知人が集まって、一大イヴェントとなった。
 今年は合鴨を放し飼いにしてみようか、窒素固定にはレンゲ草不耕起栽培も悪くない、一面白詰草で覆い尽くしてもきれいだ、あれもいいこれもいいと、宗近の姿勢を鮫島は、思いつきの遊びとしか思えないのだが、宗近は悪びれもせず、コンピューター・ネットワークで、雑誌の編集や雑文書きの合間を縫って田圃に出る、半農半文生活を自称していた。
 日本の農家の大半は二兼といわれる、農業所得より農業外所得が多い第二種兼業農家なのだから、その限りでは宗近は平均的農民といえなくもなかった。
 これまでの農業政策は、専業農家に的を絞った、近代化大規模化が主流であったが、ことの最初から無意味だったわけだ。近年増加している農業生産法人は、すでに農業の特性を放棄した一つの工場・会社として経営されるのがほとんどであり、それはそれでいいが、宗近は農業を選んだ意味がどこかになければならないという思いは辛うじて持っているようだった。他の事業でも何でも、うまく行けばそれでいいというのであれば、農業に執着する意味がなくなってしまうし、本当に宗近自身、農業に対する執着がどれほどあるのかもわからないのだが、ともかく、偶然にしろ宗近は農業を選んだのだ。
 そして、日本の農業の将来像は、趣味的に片手間にできる方法を発見することの中にしかないという確信を持っていた。
 農業に真面目に取り組んではいけない。真剣にやってもろくなことはなかったではないか、片手間のいい加減な農業こそが農地一ヘクタール未満の兼業農家が、逆に生き残れる。宗近は、そういう持論を隠しもしなかったので、セトラー仲間から、半分は興味をもたれ、半分は相手にされなかったのだ。

 夜になり、人々がオリザホールのロビーに集まり始めている。
 炭焼きをしている桧山は、津久南山の山林の管理を任されている。桧山の妻スヤマは、かって名匠の名をほしいままにしていた陶芸家文久堂陶吾の娘で、スヤマ自身も陶工として一家を成していた。津久南山から陶土は出ないので、どこでも同じことなのだが、登り窯を作る場所をさがしていた。スヤマの作品は中央でもまずまずの評価を得ており、愛好者も多く、ここへ来てからは村の役場で個展を開いたり陶芸教室を受け持ったりして、財団内部では村から歓迎される唯一の人物だった。
 夫の桧山も始め陶芸家として出発したのだったが、オリジナル作家として通用する程には、才能も覇気も野心もなく、桧山の言によれば、ある日突然啓示を受け、炭焼きが自分の天職であったことを悟ったのだという。それからというもの、桧山は考えうるありとあらゆる物を炭に変えていった。もちろん、料亭に卸す姥女樫(うばめがし)を用いるスタンダード備長炭は焼いているが、竹や廃材何でも焼いた。
 そしてある日『思い出の品を炭にします』という新聞チラシを広告を出した。長年愛用した机や椅子、取り壊した家の一部など、捨てるに忍びない物を炭にして残すというのだが、そのままとっておくのとどう違うのか、記念として残すことと炭がどう結びつくのかは桧山以外にはわからなかった。しかし、炭焼きで出る木酢液は農薬としても有用だったから、桧山の炭焼きに干渉する者はいなかった。
 塔司は試みに、古い研究所を解体した時のレリーフを施した柱の一部を頼んでみた。できた炭は、透明のアクリル樹脂製の円筒型容器に納められて、木材の時より三割方焼き縮みしたろうか、水分が抜けた分軽くはなっているが、それでも炭にすることにどれほどの意味があるのかからなかった。
 桧山は自身、その画期的なアイディアに自信を持ち、絶対的確信に支えられていた。炭は部屋に置けば装飾にもなり、除湿や脱臭効果は大で空気を浄化してくれ、もちろん燃料として使える上に、何より炭にすると物の本質が見えてくるというのだった。
 桧山は炭の柱を届けるとき、一緒にとっておきの自信作を塔司に寄贈した。それは方形のアクリルケイス入りの黒変した分厚い書物であった。紙は木材パルプからできるのだから炭にできないこともないだろうが、桧山は試行錯誤を重ねた末にやっと完成したのだと、苦労を語った。形を保つ為にまわりに樹脂を吹き付けるのだが、多すぎると本来の炭としての機能がなくなり、少ないと書物は崩れ去ってしまう。特殊樹脂の配合にはことのほか腐心したといい、この樹脂を使えば、木材だけでなくあらゆる有機物、皮でも動物でも、またその形のよい排出物でも、使い道のない泥炭を彫刻した作品など、何でも炭に変えることができるという。
 炭の入ったアクリル容器には、いくつもの小さな空気穴が穿たれいる。桧山は炭は呼吸し生きていると断言するのだが、塔司にはそれら、柱や本や靴の炭は、そのまま火葬された物の遺骨に見えた。透明アクリルケイスは骨壺さながらに、物の遺骸をひっそり包み沈黙するばかりだった。

 その夜のスヤマ目立たない小紋の和服をさらりと着こなし、粋というその一歩手前で踏みとどまる限りない洗練があった。それに引きかえ夫の桧山は、チロル風の得体の知れない民族衣装もどきのジャケットを着込んでいた。陶芸家として名を成している妻との間で、どういう力学が働くものか、他人には窺い知れない。
 塔司が颯爽とブラックタイ姿で現れ、テーブルに着いた。ロビーに群れていた者達がそれに続き、やや遅れて塔司の妹・原須コジマが、鯨丘夫人を従えて、階段を降りてきた。
 原須コジマは、銀色のシルク・ジャージのチューブドレスの少しだらりと裾を引きずっていた。
 これが、オパールライス研究所・ストローベリヒルに住んでいる関係者二十数名であった。
 塔司はいつも通りに、ディナーとはいえ略式だから気楽にやって下さいと促す。会食の時は、近くのレストランのシェフが給仕係のボーイを引き連れて出張してきた。
 大きなダイニング・テイブルの上座から、原須兄妹・鯨丘夫人・桧山夫妻・ファクトリーの研究員の順で着席し、別のテーブルにセトラーの面々が座った。これがそのまま、ストローベリヒルのハイアラキーを表している。大石一家は、原須家の私的な傭人ということになっているので、こういう場には顔を見せなかった。
 会食後、話題も尽きた時、塔司は興がのればホールのグランドピアノを、劇的な演出で弾いてみせた。
 原須コジマは、幼い頃心を奪われた兄のピアノの音色に、いつからか違和を感ずるようになっていた。
 物心ついてからずっとコジマは兄の後をついて歩き、ことに両親が死んでからは片時も兄のそばを離れようとせず、兄の華麗なピアノをこよなく愛した。今日はもう終わりと言うのを、あと一曲あと一曲とせがんでは、兄と鯨丘夫人を困らせ、駄々をこねるコジマを持て余し二人が顔を見合わせる時、コジマは一番の幸せを感じていた。
 あれほど感動した兄の音楽が、少しずつ疎ましくなっていった。ドラマチックな表現過剰とも思えるある種のあつかましさ、それは強さかもしれないのだが、ほとんど下品といっていい大音量を轟かす兄から、コジマはゆっくりと離れた。離れてみると、兄のピアノを聞くのが時に苦痛にさえなり、それからずっとピアノに触れる気もなくっていった。
 コジマが再びピアノを弾き始めたのは、十八世紀ヴィーン製のフォルテピアノの覆刻を手に入れてからだった。
 十九世紀以降のピアノのように、まだ独奏楽器として自己表現し始める前の、未完成故の弱さが、コジマにはむしろ好ましく思えた。バロックから古典派の楽曲に頻繁に現れる低音部の和音の連続が、これ程軽やかで心地よいとは思いもしなかった。
 産業革命以降、年々ピアノ線の鋼の品質が向上し、強い力で引っ張っても耐えられるようになり、次に鋳物製フレイムが登場し、弦はどんどん太く丈夫になり、更に強い力で引っ張れるようになる。結果、ピアノはどんどん大型化し、より良い響き、より大きな音量を追求し、器楽演奏のセントラル=ドグマとなった。
 折しも、近代作曲家の自己表現の時代を迎え、いきおい減衰の早い高音部中心の音楽に傾く。縦横な音楽表現の為には、最早低音部は響き過ぎて、かえって表現の幅をせばめると考えられるようになる。機械としての性能の向上が音楽の質を変え、ピアノは低音部楽器としてあれほどの巨体を獲得したはずなのに、高性能故に低音部は回避されることになる。
 より大きな音、より豊かな響きを追求した結果、古典派以前の低音部の密集和音は、パドゥ−ラ・スコダといわれる判別不能な雑音と化し、編曲なしには演奏できなくなり、近代の矛盾をピアノが一身に体現しているということだった。
 コジマのフォルテピアノは、音色の幅は狭く洗練とは程遠い響きだったが、一人で弾くには十分な音量であり、コジマの技術レヴェルでは兄のコンサートピアノの強固さはどうすることもできず、古楽器はコジマの腕力でも答えてくれそうだった。明快で軽やかな低音、やわらかな高音、それは決して前へ前へ突き進み人を衝撃で揺さぶるという力はなく、最初のたった一音で人を打ちのめす、強烈なアタックとは無縁だった。現代の完成された音に慣れた耳には、稚拙な玩具とも感じられてしまうということも事実あるが、コジマの今がそれを受け入れたのであろうか。
 フォルテピアノの調律も変えた。産業革命後、一つの理想になった平均律、一オクターヴを十二等分するのではなく、十八世紀に主流だったキルンベルガーやヴェルクマイスターの第三調律法なりを調律師と相談するのだった。
 ピッチは今、A=四百三十ヘルツに落としてあった。
 一般に出版される楽譜は、十九世紀の編曲が底本になっている場合が多く、オリジナル楽譜はなかなか入手しにくいのだが、コジマは人に聞かせる為に演奏するのではなく、一人で弾いていれば満足なのであり、従って体系的にオリジナル楽譜を検討する必要はさらさらなく、たまたま手に入った楽譜で十分だった。モーツァルトなりシューベルトなり、気に入った小品の二、三曲を、飽きもせずに繰り返し弾き続けるだけなのだ。そうしていると、気分が落ち着き、五オクターヴ・六十一鍵のこぢんまりしたハンマー・フリューゲルが友とも家具とも玩具ともなった。
 それから、ようやく兄のピアノを聞き流せるようになり、こけおどしとも思えるアクロバティックなテクニックも楽しめるようになった。そうなって初めてコジマは、なぜ兄がそこまで超絶技巧にのめり込むのか、わからないでもないという気がしていた。
 しかし、食後のデミタスカップを口に運んでいる時、地鳴りのようなグリサンドを轟かすピアノには、やはり閉口していた。
 塔司は調律を、国際ピッチA四十九鍵=四百四十ヘルツではなく、コンサートピアノのソロピアニスト並みにピッチA=四百四十二ヘルツに取っていた。その上、更に上げられるかどうかピアノの強度について、調律師がやって来る度に押し問答を繰り返し、結局のところ引き際を心得た調律師がうまくかわして、無難に処理して納まるのだった。
 兄と妹は、音楽に対する姿勢は全く違っていたが、楽器との関係は似ていた。
 食事が終わりラウンジに場所を変えたとしても、セトラー達は農場も二年目に入り軌道に乗ったこともあって、開所当時のように声高に議論をたたかわすこともなくなり、それぞれ談笑したり上等なワインを飲んだり、楽しいといえば楽しいが、何もすることがないといえばその通りという、倦怠に近づきつつあった。
 人々が気軽に歌ったり踊ったりして時を過ごすような場合、塔司は決してピアノに向かうことはない。自分のピアノに誰か他の者が触れるのも嫌ったので、ホールには大コンサートピアノの脇にもう一台セミ・コンサートが置いてあった。
 食後の、いわゆるラウンジピアノはもっぱら白鳥夫人・カトウの役目だった。
 年の割には若く見え、それでも確実に衰えることにはあらがえず、中年にさしかかる前の一片の若さにしがみつき、女のいやらしさみじめさを忠実に演じてしまう滑稽さを、根源的な叫び、などと錯覚している能天気な女だ。酔漢の歌の伴奏をしたり、研究員や若いセトラーに意味ありげな視線を投げかけ、時に大袈裟にはしゃぎ、これといって面白味のない地味な夫にあきあきしている倦怠期の妻という役まわりを進んで受け入れて、夫を無視していた。ピアノが少しばかり上手で一時は期待をされもしたというプライドと挫折と不遜が、カトウを堕落から救ってはいたが、アマチュアの高慢が、演奏から格調を奪っていた。
 会食ももう終わりに近い時間になって、津久南山の山番をしている永源寺惟喬(これたか)がやってきた。若いというより、幼いとさえいえる面差しである。ただ挨拶に寄っただけだと言い、実際彼はこの会食の席には、いかにも若過ぎた。正式な入植者ではなく、従って惟喬は用があるわけでもないので、ホールには会合の後にちょっと顔を見せるだけだった。顔を見せることで、存在を承認されていると見なすことにしているらしかった。存在しているだけで財団になじんでいるようには思えず、そうかといって悶着を起こすこともなく、居心地のいい所に少しの間いようかという程度の考えらしい。しかし居心地を良くする為の多少の礼儀や方便は知っていて、距離を置きつつ、しかも忘れ去られてしまわない程度には顔を見せていた。
 この日も惟喬は上着こそつけていたが、いかにも何か着ないとまずいので持っている物をとにかく着てきたという出で立ちであった。慣れないながらも窮屈なダークスーツを着ているセトラー達のある種の馴染み方・処し方とも違うちぐはぐさは、二十になるかならぬかの者と、少なくとも皆二十代後半に達している者達との年齢の間に横たわる、大きな断層といったものかもしれぬ。
 惟喬の目の輝きや肌のつやには、今だ希望とか未来などという光が、どうしようもなく宿っていて、ホールにいる大人達には正視できないのだ。それは惟喬自身の内面から醸成されるものではなく、単に年齢によるものでしかないのだから、余計におぞましく耐え難かった。
 永源寺惟喬は、滋賀県琵琶湖の東、愛知川の出で、筒井神社から木地屋(きじや)文書を授かって守っているという触れ込みなのだが、本当のところはわからない。桧山夫妻の手伝いをしながら、山をまわっていた。いつともなく気がついたら桧山の山小屋に転がり込んでいたというふうで、どこからどこまで本当なのか、得体が知れず、いうことなすこと嘘臭く、それはたとえ嘘であっても他愛ないことであれば許される年齢でしかないということなので、特別問題を起こすのでもなければ、いてもいなくとも誰も困りはしないから、誰もが惟喬を見て見ぬふりをしていた。
 桧山の語るところによれば、山や樹木の知識は、どこで仕入れたのか確かにあるというから、塔司は山番として惟喬が津久南山に留まることに異存はなかった。
 惟喬は年長者ばかりの中で、若者にありがちな、照れ臭そうで曖昧な卑屈とも思える態度をとったが、それだけでは彼がどんな男かわからず、おそらく若者の多くはそういった様子をしているから、人当たりのいいおとなしそうな外見の男が、実際その通りかどうか、塔司にはわからない。
 この頃塔司は他人に対する興味を失い、人間の内面、そういうものがあるとして、などどうでもよく、自分が影響を受けるのは外部に表現されたものなのだから、本当の惟喬がどんな男であろうと、塔司の目の前で無礼を働かない限り、かまわないことだった。

 原須財団の運営は、どうやら軌道に乗り始めていた。そして塔司は、にわかに当初の熱意を失っていった。
 何の為に祖父の研究所を再開したのかといえば、旨い米を食う自由くらい誰にでもあると思ったからにすぎないし、バイオテクノロジープラントはそれはそれでいいが、全く在来栽培産品と一緒にされて選択の余地すらないのには、承伏できぬと思っただけなのだが、始めてみれば動機など何でもよくなり、数年間の準備期間は熱に浮かされたように、農場建設に憑かれ日本中を駆け回ったものだったが、熱が冷めるとそれ以前よりももっと冷え切ってしまった。
 なぜこんなところにいるのだろうか、わからなくなったり、美しい田園風景が時に呪わしくもあり、静かで平穏な生活に気が狂うかと思われたり、それは塔司がまだ十分若いということの表れであるかもしれないのだが、そうかといって、もう別の新しい対象に情熱を燃やすということも、ありそうになかった。
 財団全部を、セトラーなり研究員なりに明け渡してしまってもいいような気になっていた。
 塔司がストローベリヒルに住まなくてはならない理由はないし、財団の理事長が常にオリザホールにいなくても不都合はなく、塔司の自家用米くらいはどうにでもなるのだし、第一塔司は食欲に対する執着が強いわけでもないので、旨い米が食べたいということは、方便に過ぎなかったようなものなのだが、何の為の方便だったのかもわからなくなっていた。
 田舎に引き籠もってからは、首都の友人達とも疎遠となり、妹のコジマもかっての親密さはなく、庇護を必要とする年でもなくなれば当然のことではあったが、どこかでコジマだけは変わるはずがないと思い込んでいた迂闊さに打ちのめされもしたが、顔色一つ変えずにやり過ごしていた。
 塔司は自分の中に野望に似た情熱の在りかは認めたが、人に対する征服欲というものは全く欠如していることを知っていた。
 才能と活力に溢れた者が、支配欲を欠落させると、もう周囲との絆はなくなるといっていい。征服欲をあらかじめ失っているということは、辛うじて祖父の夢見た妄想から救われて、健全な生活に繋ぎ止められていることを可能にしているのだが、もう何の刺激も感興もない平板な日常に苛立ち、苛立ちつつ日常の中に、夢とか若さとか時間とかいったものが消えていくのだった。
 妹のコジマも、それと似た状況に陥ったようだ。コジマは考えまいとして、余計に憂鬱になっていたようで、やはり塔司とコジマは、時として瓜二つだった。
 塔司は隣にすわっている妹に、小声でささやいた。
「このごろ、外出していないようだな」
「用事がないもの」
「旅行にでも行ったらどうだ」
「たいていの所は行ってしまったし、何も欲しい物もありませんし、お兄様こそ、何か変わったこと、ありますの」
「いや、何も。子供の頃、夏休みにだけ来ていた時は感じなかったのだが、こういう田舎のいい空気は人間を堕落させると思わないか」
「堕落ですか。
 普通、いい空気の中で自然に囲まれて、日の光に木のはが一枚一枚透けて、本当に影が緑色に映ることさえあって、木洩れ日の林を白木綿の服か何かを着て歩くと、風の形というか自分の体の形といっても同じだけれど、体を包んでいる空間全体を感じることができる。
 こういう暮らしが人間らしい生活というんじゃなくて」
「本当にそう思うかい」
「いいえ、うんざり。かといって、遊び歩いても楽しくないし」
「人間から、野心や虚栄心や上昇志向や競争心や、そういう活力を奪うものは、やはり堕落といえるよ。のどかな、幸福に浸っていたら、あとはそのまま衰弱するだけさ」
「もう私達、何もすることがないということかしら」
「いや、そうでもないさ。
 田舎の暮らしに飽きたら、またよそへ行けばいい」
 塔司とコジマは、ラウンジのソファにかけ、意味のない会話を切れ切れに続けていた。
 近くにいた永源寺惟喬が、コジマに何か言いたけな様子で、しかも何も言い出せずにためらいがちに盗み見るようにうかがっている。
 コジマとっくに気付いてはいたが、絵に描いたような繊細でナイーヴな好青年と、思わせぶりな厚かましさが矛盾なく同居する男に、苛立ちを押さえられない。
「私、これで失礼します」
 コジマは一人、そうそうと退席したが、会場に何一つ変化は起こらなかった。

 コジマはずっと、欲望から離れ執着から解放されれば、人間はもっと自由になれると思っていたが、欲望がなくなれば同時に周囲に対する興味も失せて、この頃では沈むばかりだった。
 数年前までの、水上レストランやラウンジを借り切っての乱痴気騒ぎや、連夜のパーティー行脚がなつかしくさえあるが、今は思い出すだけでそうしたいと思ってはいないし、なつかしくてもこの上なくばかばかしいことには変わりなかった。
 コジマは改めて、田舎はもっと嫌いだったことに気付いた。かつて山荘に籠もった友人が、山の夜の静けさは都会の無無響室をしのいでおり、気が狂いそうになって早々に下山したと言っていたのを思い出した。静寂は、心の平安ではなく、人間の狂気を呼び覚ますものらしい。
 コジマは引っ越してきた当座、あまりの静けさに耳が痛くなり、不眠に陥ってしまったので、大きな音のする古い機械時計と、好きでもない熱帯魚の水槽を部屋に入れた。熱帯魚を飼い始めたからといって、コジマはけばけばしい魚には見向きもしなかった。かわって鯨丘夫人が、もともとそういう趣味があったのか、にわかに目覚めたのかすっかり魚に夢中になり、毎日世話を欠かさず、毎日世話をしていると情が移るのか、そのかわいがりようは一通りではなかった。だが、夫人の言によると、魚に愛情は通じないということだった。情が通じないところがいいとも言っていた。
 コジマは熱帯魚には興味がなく、体の毒々しい縞模様をが目の中まで連続している生き物が何を見ているのか考えたくもなく、ただ水槽のポンプの唸りと、時折魚が跳ねて水を打つ音を聞いているだけだった。
 鮫島のところでは犬を飼っていたが、臆病で吠えもしない。コジマが水槽を置いたのは水音が好きというわけではなく、耳に届く確かな音なら何でもよかった。夜、ベッドの中で寝返りを打つ時の布団の衣擦れの音しか聞こえない部屋でなくなればいいのだ。
 コジマは二階へ引きあげると、もう何もすることがない。フォルテピアノも読書も以前のように熱中できないし、他人に対してひどく冷淡になり、それがまた人を遠ざけた。
 ある朝、兄の寝室からコジマの友人が現れたところに出くわしてから、それは兄にとっても美しい友人にとっても喜ばしいことなのだが、当然の事柄を目の当たりにすると全てが色褪せ、、わかり切っている、兄も他人だという簡単なことも、何か重大な試練か大時代な通過儀礼か何かのように考えがちになるのが、馬鹿ばかしくもおかしく思われるが、一向に気分は晴れない。コジマのボーイフレンドが別の女友達を連れて現れた時も、驚きもしなかった。
 はにかむように物言いたげな永源寺惟喬を見ても、それは普通年上の女には好ましいはずの、若者の身振りであり、単なる衝動的欲望も、頬を赤らめたりする初々しさ故に誰もがあっさり免罪して、心地よい錯覚に陥っていいはずだったが、強いてコジマが絞り出せる感情は、憎しみに近かった。いかにも若者然とした溌剌さや、その裏返しの気おくれや、小動物のような十分にかわいらしくしかもおどおどした態度を、惟喬は好意的に受け入れられると知っての演技か、それと知らずなぞってしまう振る舞いか、ともかくコジマには、その若い傲慢さが腹立たしいばかりであった。
 こんなことなら、俗物がひしめく都会のほうが、少しはましかと思い始めていた。

 夜も更けて、塔司は三階の自室へと戻った。
 惰性で続けているだけとなってしまった会食ではあったが、出張してくる西洋料理のシェフは予算と時間の制約を受けないこの仕事に全料理人生命を賭け、この時とばかりにあの手この手で工夫を凝らし、メニュー書きまで作って各席に置く念の入れようで、セトラーや研究員の大袈裟な驚きの表情に料理人は満足し、次月の献立の計画書まで用意されるに至っては、塔司は会食自体を文化的行事と見なすより他はないと思った。そう考えれば、二年の間にも料理一つさえ流行があり一度として同じ物が供されたことはなく、料理人の気概に端無くも推されることとなり、会食をやめることはできなくなっていた。
 始めてしまったことは、途中でやめることはできない。今となっては大勢の人間が、かかわり過ぎていた。旨い米が食べたいと思って始めただけの事業だが、塔司はそれまで米を毎日食べていたわけでも、それほど飯が好きだったわけでもないことに、しばらくして気付いたのだったが、今はやめるわけにはいかない。本当は、いつやめても一向に誰も困りはしないのだが。
 幾ばくかの退職金なり保証金なりを、差し出しさえすれば、いつでも一人になれることはわかり切っていた。
 だが、塔司は現実の責任を双肩に担うと、それが初めての経験であったことを知った。以前の会社経営なぞは既にでき上がった機構に乗っていたに過ぎず、力も責任もシステム自体に所属するものであって、本当のところ原須コンツェルンは、塔司も役員をも必要としていなかった。
 塔司にとって、現実的社会的体験というのはこれが初めてということになり、それは刺激的でも衝撃的でも感動的でもなく、まして大任を果たしているという自負も達成感もなく、一日が終わるとぐったりベットに倒れ込むだけになっていた。
 ストローベリヒルの開所当座は、物珍しさだけで、ファクトリーに通いつめ、無菌培養室に入るのに着替えたり消毒したりといった繁雑な手続きもいとわなかったものだ。
 植物細胞から細胞壁を取り除き原形質体だけになったプロトプラスト(proto plast)からカルス(calus)という脱分化細胞を誘導し、緑色のぶよぶよしたカルスから個体再生する一連の細胞培養のプロセスは、確かに塔司の目の前に、新しい世界を開いた。これらの技術は、しかし今では細胞融合の基礎技術として珍しくもなく、初歩的な実験になり下がっていると知ると、にわかに熱も冷め、この頃では実験着に着替えることもなく、たまに廊下からガラス越しにラボラトリ−をのぞくだけになっていた。
 一部の細胞や組織から完全な個体を再分化させる能力を分化全能性というのだが、実にこの分化全能性こそ、植物と動物を分かつものである。一個のどんな細胞からでも完全復活する植物は、無限の可能性を秘めているように思えた。
 研究所では、成長点培養したウィルスフリーの無ウィルス植物や人工種子製造・クローン培養(clone)を行い、コンピュータによる遺伝子のゲノム解読を延々と続けていた。DNA(デオキシリボ酸)の二重螺旋構造を形成する五炭糖と燐酸が交互に並んだ高分子化合物は、全て四種の塩基、T(チミン) A(アデニン) C(シトシン) G(グアニン)の配列として解読でき、日夜絶えることなくコンピュータは解析作業を続け、その成果は遺伝子組み替え技術に十分活かされてはいるが、塔司は研究員の考え方を、全面的に承認しているわけではなかった。
 というのも、植物は動物と違い、同じ遺伝形質を持っていても、環境や諸々の因子によって遺伝子の発現様式が著しく変化する。それは植物が自ら動くことができないという、当たり前の特性に由来するものであった。
 同じ種子を播いても、土地や水・気候によって遺伝子の形質自体が変わりさえする。そもそも農業はきわめてドメスティックなものであり、動けぬ植物は土と結託して、人間を裏切り続けるであろう。
 たとい人工種子にしたところで、同じように成育するとは限らない。主要穀物までも屋内工場で生産するようになる日が、いつか来るかもしれぬが、その日はそう近いわけではない。バイオテクノロジーの水準と、農業経営の水準は別物であり、人間の食物に対する心性や嗜好も別である。
 研究室で最先端技術を駆使した培養植物を作り出す当事者であっても、自分の家庭の食卓には日の光をあび土の上で育った有機野菜をのせたいと思うような、身勝手な健全さが、案外人間を救うかもしれぬと、塔司は考えることもあった。
 植物工場の人工照明の元に無数に並んだシャーレの培地に無定形の細胞塊が増殖していく。緑色のゼリーのようなカルスは、美しくも醜悪だった。オーキシンやサイトカイニンなどの植物ホルモンを与えれば、緑色の半透明な柔らかい宝石は、ガラスのペトリ皿の中でむくむくと育ち、新しく伸びてくる部位を切り取り植え継げば、カルスは無限成長を続け、カルスは不定形のぶよぶよしたカルスの塊のまま、永遠に存在し続けることだろう。
 
 塔司は上着を脱ぎ捨て、シャツのカラーをはずしてテイブルの上に置いた。
 南側のはめ殺しの窓はブラインドは上がったままになって、ガラスの向こうには真空の闇が広がる。ガラスは照明の光を全反射し、内と外を完全に遮断していた。
 セキュリティ・システムの都合から、建物の開口部部は最小限に抑えられ、わずかにある明かり採り用のガラス窓は、はめ殺しになっていた。今となっては馬鹿ばかしい限りだが、設計段階では、万全の防御システムを備えた要塞さながらの不落城を実現することに没頭した。さすがに鯨丘夫人だけは、この子供じみた考えを一蹴し、鯨丘夫人の部屋は別の造りになっていた。
 オリザホールの外観はまちがいなく、一つの建物に見えるが、北翼の研究員宿舎は実は完全に独立したブロックになっている。南翼ホールは幾つかのブロックに分かれ、三階の塔司の部屋は宙に浮くカプセルだった。部屋には一階へ直接通じる内階段が組み込まれていて、三階は独立して外とつながっている。建物の構造の詳細を知っているのは塔司だけで、緊急の場合は各ブロックを遮断できる。その操作室が三階に匿されていた。
 セキュリティとか緊急事態というのが何を表すのか、何から城を守る為に立てこもるのかは考えていない。オリザホールが鉄壁の設計を誇る城塞でありシェルターであるという事実があれば、それで十分だった。
 設計を始めると、建物自体が完全であることを要求しているように思え、建物の自立運動に巻き込まれてしまったかのような、眩暈を覚えていたのだった。
 塔司は壁によりかかり、窓の外の闇に目を凝らした。部屋の明かりを落とすと、外の明るくなっている所だけが見える。
 ホールから南へ向かうグリーンガーデンへの道に、数ヶ所背の高い照明灯が、無機的な光を放っている。三メートルばかりの幅をアスファルトで固めた小径が木々の陰から見え隠れし、そこだけひどく頼りなげに、ぼおっと漆黒の中から浮かび上がっていた。
 その灰色の小径を、白っぽい上着を羽織った人影が、グリーンガーデンの二階の外階段をのぼり、鬼頭の部屋の前で立ち止まるだろう。塔司は、それらの遠景を、非現実的な映像をながめるように見送った。
 あの女は何なのだ。
 塔司がストローベリヒルに移ってきた日の夜、あの女は何の前触れもなく、つうと部屋に入ってきて、自分の部屋で着替えでもするような自然さで、服を脱ぎ始めたのだ。
 塔司でさえ、スズキが引っ越し荷物の後片付けの為に立ち働いているかのような錯覚を覚えるほどに、さりげなく日常的な振る舞いで、裸で立っていたのだった。
 塔司がスズキを抱く気にならなかったのは、スズキが祖父の子ではないかという疑いの為ばかりではなかった。
 スズキは、肥っているわけでもない、華奢な体つきにもかかわらず、ぶよぶよと得体の知れぬ軟体動物のようにとらえ所がなく、無限増殖を続ける不定胚細胞塊のように、蒼白い半透明の皮膚の下で、しまりのない原形質が対流しているのだ。
 スズキは祖父の子である必要すらないのかもしれず、ツツミの細胞から分離されたスズキは、父親なぞ不用の単一起源コピーであるかもしれなかった。
 塔司が椅子に座ったまま、裸のスズキを見上げていると、スズキは当惑したようにこちらを見返した。当惑しているのはこちらだと言ってみても通じそうになく、スズキにとって性交は言葉のようなものかも知れぬが、言葉を尽くすことを最初から放棄して裸になったところで、何がわかるというのか。どうしてもスズキは人間の女とは思えない。
 塔司はスズキと言葉を交わしたくもない。男と女の間に常に性交が成り立つわけではないと言うことを、スズキは理解できないらしく、塔司はうんざりし、スズキは更に困惑の表情を強めた。
 たくさんだ。塔司は床に落ちている服を、スズキの裸の胸元めがけて、投げつけた。
 それ以来、スズキとは言葉を交わしたことがない。それ以前も、スズキがものを言った記憶はなかったのだが、スズキの声をいったい聞いたことがあったかどうか、にわかにあやしくなった。
 どちらにせよ、言葉を交わしたところで、何か意味のある会話が成り立つとは思えない。
 グリーンガーデンの白い影が、鬼頭の部屋の中へ消える時、ちらとこちらの方を見上げたような気がした。

(4章につづく)

先頭へ戻る