オパールライス戦争
     【第三部】

古井みち子 作 (無断転載を禁じます) 

  4章 合唱団が村へやってくる
          コロス

  5章 タンブルウィードのように
       I feel like tumblle weed

4章 合唱団が村へやってくる    
 コロス                       

 それから数日後、彼等はやってきた。
 少しずつ蒸し暑くなり始め、雨が降ったかと思うと、ぱっと雲間から日が射して水蒸気が立ち昇り、あたりは草いきれでむせ返る。
 田植えを終えた稲は、勢いよく分蘖(ぶんけつ)を始め、すっと伸びた針のように細い葉先に、水滴を一粒一粒律儀にいただいて、風が吹いたり人が通ったりすると、水滴は弾かれて四方に飛び散り、農夫のシャツを濡らす。
 そう不快でもなく、さりとて爽やかでは全くない、そういう日が続いている。
 コンクリートやアスファルトは雨で黒くぬれていたかと思うや、急に強い日射しに照らされて一気に乾ききり、湯気を上げるダダ門の向こうから一台の灰色の装甲車のようなバスが入ってきた。車の後方は窓もなく、中をうかがうことはできない。
 バスはゆっくりとダダ門の先を右折し、グリーンガーデンの方にある車庫に入った。
 しばらくの後、カソックのような黒い法衣のチュニックに身を包んだ一団が、ぞろぞろとオリザホールの方へ歩いてきた。
 先頭に立つ、老人と青年と思しき二人こそ長身痩躯で黒い服がよく似合っていたが、それに続く十人ほどの集団は、一目で異形の無様な不具者の群とわかる。ほとんど中年から老年に近い年に思われるのだが、熊のような大きな体に丸々とした子供のような顔がのり、中年婦人のようにずんぐりとし、妙に血色が良く肌は桃色につやつや光っていた。
 原須塔司は玄関に立ち、彼らバヴァリアン・コロスを迎えた。
 塔司は、以前から連絡は受けていたし、事情を説明されもしていたが、カストラートなどという人種は十八世紀にはほぼ絶滅したはずだし、二十世紀初頭に最後の一人が死に完全に姿を消したはずだった。まぼろしの去勢歌手集団などと言われても、にわかには信じ難く、男装したアルト歌手か、女装したファルセット歌手か何かだろうと思い、何であってもたかだか十数人が何ヶ月かの間逗留することに、やぶさかではなく、退屈しのぎとしてはちょうどいいと思ったのだ。
 しかし、バヴァリアン・コロスは、塔司の前に異様の風体をさらしていた。
 先頭の青年が塔司の前に進み出て、口を開いた。
「しばらく、お世話になります。
 私は、究・ギャラハー。日独混血です。母が日本人だったものですから、通訳も兼ねています。年寄りばかりですから、車の運転も、渉外係もしていますよ。
 もちろん、ソプラノ歌手です。
 こちらは、マイスター・ジンガーのド=ギルです」
 なめらかではあっても、人間の肉声とはどこか懸け離れて人工的な音のような響きで、究と名のる少年か少女か判別しがたい人物は、発声器官を震わせる。
 ド=ギルと言われる老人は、白く華奢な手を差し出して、握手を求めた。
 変声期前に去勢した少年は、ボーイ・ソプラノを保ち続け、カストラートと言われる神童であり続ける老人達の群。子供のまま成熟を忘れてただ成長し続け、巨大な風船のように膨らんだ、子供の形をした老人達。その中で奇跡的に秀麗でしかも精悍な容貌を持つ者だけが、マイスター。ジンガーになる資格を有した。究・ギャラハーは次代のマイスター・ジンガーになるはずだが、この先コロス団員が増えることは考えられず、究が本当に最後のカストラートになるであろう。

 コロスはオーストリア国境に近い南ドイツ・パッサウの山の中を本拠地に、細ぼそと命脈を保ってきたというのだった。
 彼らを見た今でも、塔司は胡散臭さを拭い切れず、胡散臭くても詐欺師でも一向にかまわないが、ド=ギルと究は別にしても、あとの団員達には嫌悪感を催さずにはいられなかった。
 彼らの長衣には確かに、神聖ローマ帝国から授かった印が輝いてはいたが、神聖ローマ帝国にしろ、オーストリア=ハンガリー二重帝国カカーニエンにしろ、とうの昔に消滅したことに違いなく、異界の時間が彼等を取り巻いていた。
「ゲスト・ルームでくつろいで下さい」
 塔司はそれだけ言って、早々に彼等の前から姿を消した。
 コジマは二階でフォルテピアノに向かい、モーツァルトやスカルラッティの小品を弾いていた。
 黒い床まで届くチュニックを着た、長身の混血青年が階段を上がってきた。
「今到着した、バヴァリアン・コロスのQです」
 究=ギャラハーの声は自動人形のように何の感情の起伏も表すことなく直裁に外界に放たれる。
「はじめまして、原須コジマよ。
 あなた、カストラートって本当なの」
「本当です。
 ところで、このハンマー・フリューゲル、貸して頂けますか」
 コジマがスツールから立つと、入れ替わりに素早く椅子にかけ、鍵盤の上をスケイルを何度か繰り返し、続いてコジマが知らない曲を弾き始めた。
「何て曲かしら」
「ヘンデルのオペラ『オルランド』のアリアです」
 それから究はあたりをぐるりと見まわしてから、下へ降りていった。しばらくして戻ってくると、音叉(おんさ)やレンチ等を取り出して、フォルテピアノの蓋をあけ、中をのぞいて調律を始めた。
 コジマは、究が鍵盤を押さえる指を見て、Qがカストラートであると納得した。Qの手は男のものではなく、大きくはあり子供ではなく女でもなく、何のものでもなくただ目の前に投げ出される。
 コジマはQの作業をながめ、二人して他愛ないお喋りをしたり、Qが工具を振りまわしながら鍵盤を押し音を出しながら、ちょっと眉をひそめむつかしい顔をするのを笑ったり、今会ったばかりなのに、ずっと毎日こうしていたような気がしていた。
 いつのことだったか、小さい時に兄のピアノを聞いていた頃のような懐かしさにも少し似ていたり、小学生の頃か幼い級友達とカバンをほおり出して土手で花摘みをしながら、耳に口を近づけてひそひそ内緒話をする時のくすぐったさのようでもあった。
 久しぶりに再会した旧友の顔を見ているうち、普段すっかり忘れていた事どもがまたたく間に記憶の細部までよみがえったときのように、懐かしさと恥ずかしさがないまぜになった甘い追憶が押し寄せ、古臭い感傷的なセピア色の写真を見るような切なさがこみ上げた。
 だが、コジマの感傷などと関係なく、Qは動作も物言いもてきぱきと歯切れよく、踊るように軽快に工具を動かしていた。
 調律作業を終えたQは、ピアノ椅子の高さを合わせてから、おもむろに座り直した。
 モーツァルトのDメイジャーの軽快な旋律が部屋に満ち、コジマはサイドテイブルに頬杖をついて、Qのなだらかな後ろ姿を見ていた。
 ドアを叩く音がして、スズキが紅茶のポットがのったワゴンを押して入ってきた。おどおどしているようでいて、動作は案外的確だったから、コジマにはスズキが馬鹿なのか利口なのかわからなかった。
 Qはくるりとこちらへ向き直り、白磁の器を口に運び、ゆっくりと少し飲んだ。
「今の人、きれいだけれど、何か気持ち悪い人ですね」
 Qこそが他人から言われそうな言葉だった。
「あなたもそうよ」
「そうでしょうか」
 Qは不快感を表すでもなく、反発するでもなく平然とした調子で言った。
「ぼくは気持ち悪いですか」
「いいえ、でも通俗的な意味で、そう感じる人はいるでしょう」
「そうですね。もう好奇な目には慣れました。
 みんな知りたがっていること、見たがっているものは一つです」
「それはそう。私だって、ごく低俗な人間ですもの、一度見てみたいわ」
「お見せしましょうか」
「結構よ。
 オパールドームで演奏会をやるんでしょう」
「招待客が五百人くらいに膨れ上がってしまったそうです。もっとも演奏会というより、パーティのようなものです。本来、音楽とはそういうものです。
 ドームは練習にもいいし、あの音響効果は独特だ。さっそく練習だ」
「明日、聞きにいっていいかしら」
「どうぞ、ぜひ」
 コジマは話をしている最中も、この人は男ではない、この人は女ではないという思いがぐるぐる頭の中をめぐり、その間を水槽の魚がぴちゃぴちゃはね、紅茶を飲みくだす音がごくんと響き、椅子を引くと床がきしり、初対面のしかもカストラートにどう接すればいいのかわからない。
 こんなことは、今まで一度もないことだった。初めて会う者だろうと、どんな政府の高官だろうと、傍若無人に振る舞ってきた。
 だのに、究・ギャラハーという存在の信じ難さに動揺し、緊張して喉が渇くのに、思うように飲み込めない。動きの一つ一つがぎこちなくこわばっていくが、一方で頭はすっきりと晴れやかにくつろいで、真空の中へ放り出されたように、不安定でありながら、のどかにたゆたっていた。
 いつの夏だったか、ストローベリヒルへ休暇に大勢でやってきて、木陰でオレンジ・エイドを飲みながらお喋りをしたり、花を生けたり、ドミノゲイムをしたり、テニスを楽しんだり、雷池で泳いだりした。毎年そうしていたのかもしれない。両親が生きていた頃は。
 初めて池で泳いだ時、緑色に水が濁り、泥の水底がぬるぬるして気持ち悪かったことが思い出され、水から上がると真っ白いタオルが用意されていたりして、楽しく幸福に輝いた思い出の中には、母がいて父がいて兄がいて、その中にQがいてもいいような気がし、そのうちに確かにその中にQがいたような気がしてきて、Qは小さい時からずっと一番仲のいい友人だったと思え、打ち解けた気持ちになったりもするが、依然Qは初対面の去勢歌手であり、コジマは何を言ったらいいかわからない。
「私のゲストにならないこと。
 若い方はあなた一人でしょう。ここは私一人なのよ。ベッドルームはいくつもあるわ。
 一階でなくてもいいでしょう。ここへ、いらっしゃいな」
 コジマはそう言うと、そう決めていた。
「明日の朝から練習を始めます。
 すべては明日からです。明日、ここへ来ましょう。
 これから少し、団員達の世話がありますから。老人達は何もできないのです、一人では。
 明日から始まります」
 究・ギャラハーの透明な声は、確信に満ちていた。

 朝になった。
 コジマは着替えを終え、階段を上がって三階の通路をゆっくり、オパールドームの方へ歩いていった。
 ドームの扉が近づくにつれ、かすかに空気を震わすように、ファルセット・ヴォイスが聞こえたような気がした。
 ドアノブに手をかけ、思い鉄の扉をわずかに引くと、信じ難い大音量の歌声が、一気に溢れだした。
 ファルセットと思ったのは、かつてコジマがそういう声を聞いたことがなかったので、いわゆるファルセットだと思ったのだが、それは裏声でなく、真っ直ぐに突き抜ける、金属的な高音だった。
 コーラスからQが一歩前に進み出て、ソロ・パートに移った。
 眩暈をもよおす程の装飾的パッセージは、コロラチュラ・ソプラノのようにヒステリックではなく、それでいてスリリングなルラードは、耳の奥が痛くなるような力を持っていた。Qの自在な離れ業は、それだけで確実にこの世に一つのものであり、超絶的技巧でありながら、技術を越えていた。
 コジマは、誰も聞いたことがない歌声を、今ここで聞いている。体全体が意味もなくふるえ、時として感動は、耐えねばならない種類の苦痛を伴った。
 究・ギャラハーは紛れもなく、去勢歌手であった。
 Qは十一歳になった時、睾丸を引き抜く代償として永遠の美声を手に入れた。
 十一歳の少年に、悪魔に魂を売ってでも奇跡を手にしようという決意があったかどうかわからない。生まれながらの無垢の美声を、何としてでも保とうとする野心が、十一歳だからといって、ないとも言えぬ。
 とまれ、その日から、Qに劇的な変化が起こったのだった。
 去勢したQは、小鳥のさえずりのような無垢で無自覚なボーイソプラノではなくなった。カストラートとは、子供の声を持ち続けることではなく、カストラートになることだと悟ったのだった。
 カストラートたることを選択した意志が、弱々しいボーイソプラノから、何ものも遮ることができない強靱な声を作った。それは声というよりも、より純粋な音といっていい。
 Qの歌声は最早人間の肉声とはいえず、Qは声の為だけに存在し、肉体は声帯の共鳴機械と化し、Qの歌声は破壊的な衝撃波となって世界を震撼させた。
 カストラートの歌声にひたり切ったコジマは密かに、鼓膜が破れ耳から血を流して死に至る、妄想に取りつかれていた。
 ドームのガラスと植物群が、歌手の声に共鳴して、通奏低音のようにざわつく。コジマはほおけた顔で、Qが気付いて呼びかけるまでずっと立ち尽くしていた。それから、のろのろと鉄の階段を降りていった。
 ド=ギルは椅子に座って、タクトを握っている。椅子は何脚かが無造作に置かれていた。塔司が買い集めた、ハンス・ウェグナー作、1961年CBSテレビジョン討論会の例のJF・ケネディのラウンドチェアだ。
 ド=ギルの目は白く濁って、半ば死んでいる。若い頃は、伝説的なカストラート・ファリネッリことカルロ・ブロスキの再来と言われて持て囃されたものだったが、究・ギャラハーという後継者もできた今は、すぐにでも引退したいところだったが、その存在すら認知されぬカストラートに、平穏な老後は望むべくもなく、異境の地で客死、と新聞のすみに小さく報じられるまで、漂泊の旅は続く。
 ド=ギルはフランス系ユグノー派貴族の後裔だという。その昔、迫害を逃れてドイツに移住したものの経済的に逼迫し、やむ無く一族の中の一人をイタリア・ボローニャからナポリへの旅に立たせたというのだった。以来、男子の一人誰かを、三十年に一度カストラートとして輩出する家系という運命を背負った。
 カストラートの黄金時代であっても、公には去勢手術は禁止されており、表向きは落馬事故で障害をおったとされていた。華やかな舞台での称賛とは裏腹に、卑しい背徳者とさげすまされ、カストラートになった少年は一族との関係を断ち、家族の為に密かに仕送りだけを続け、無縁墓地に埋葬されることになる。
 そうして、一族の命脈は保たれてきたというのだった。
 コロス団員達は、灰色熊(グリズリー)のような巨体を持て余して、ずらりと並んでいた。
 まだ若く少しは美しかった頃には、富豪の愛人だったり、パトロンの寵愛をほしいままにしたりと華やかな艶聞に事欠かず、事実それらの後継者が存在しなければ、バヴァリアン・コロスは維持できなかったわけだが、貪欲な男色家達はマイスタージンガー一人を特別視し神格化し崇拝することで、己の欲望を正統化でき救済されるというシステムを作りだしていた。聖性をおびることになったド=ギルとQは、不可侵の存在として彼等の頭上に君臨することになる。人間としての欲望と愛憎の泥沼から遠く隔たり、それがマイスタージンガーの幸運なのか悲惨なのか、ド=ギルの濁った目から何も知ることはできない。
 ヨゼフ・ハイドンが去勢することを拒んで声変わりし、聖シュテファーノ大聖堂少年合唱隊を放逐された時から、近代が始まったというわけか。
 とまれ、日本という国では、久しく家畜を飼う経験を持たなかった為か、制度としての去勢文化が存在しない唯一の国家だったわけで、日本の男子は生まれたまま野放しにされ、本音を垂れ流すだけの赤子同然の存在なのだから、文化は生まれようもなく、ひたすら愚直な無邪気さだけが蔓延するのだ。
 本音なぞに用はない。文化というものは、表現なのだから、コジマは地声に興味はない。ありのままの人間は、ただの醜い皮袋であり、自然体ということは居直りでしかなく、コジマはそれほど傲慢でも無神経でも不遜でもなく、案外謙虚なのだった。
 家畜を飼うということは、動物を制御することである。人間一人で数十頭、数百頭の動物を飼うとすれば、雄を去勢しなければ、発情期に入った家畜は制御不可能となり、牧畜という産業は存在しない。
 バヴァリアン・コロスのずんぐりした団員達が、コジマに愛想を振りまいていた。空気袋のように肥えたカストラート達の喉から絞り出されるナイチンゲールの歌声は、人間以外の生き物のようであり、しかも人間以外の何ものでもなく、彼等は何の役割も背負わず、社会と何の関係も取り結ばず、その軽やかさに、コジマは嫉妬を覚えていた。
 ド=ギルと究・ギャラハーはいつも静かだった。他の歌手達は、ランチの時もお茶の時間も夕食の席でも、いつも陽気にはしゃいでいる。
 ソルフェージュや歌唱練習以外は、テニスをしたり散歩をしたり思い思いに過ごしている。よほど暑がりなのか、普段は綿シャツに短いパンツとサンダル履きという姿が、林のあちこちで見かけられた。
 Qがコジマの部屋に移ってきた。
 荷物は年代物の革のトランクではなくて、銀色の合金製の軽いケイスなのが以外だった。
 夕食後、原須兄妹の為にQがニコラ・ポルポーラ作曲ファリネッリのためのソルフェージを歌った。
 誰もが感嘆せずにはおれぬにもかかわらず、Qの歌声にひそむ悪意に、塔司は嫌悪をあらわにした。それは人間の性に対する悪意の挑発と、素晴らしく感動的な体験に対する畏れであった。
 Qの純化された自然で完璧な母音に人間性とか温もりは感じられず、しかもこの上なく魅惑的で柔らかく豊かなのが信じられない。
 Qの胸声とファルセットの二つのヴォーカルレジスターの切り換えは滑らかでほとんどわからないが、E音のブレイク付近でわずかに苦しそうな不安定さがあり、それは本来克服されるべき欠点であるにもかかわらず、危うさゆえにかえって、そこから一気に上声部へかけ上がっていくパッセージに、聴く者は思わず引き込まれる。胸声と頭声の見事な融合を意識的に挑発しているかのようでさえあった。
 甘美で伸びやかなコントラルト、三点ハまで三オクターヴの声域を誇るスリリングなトリル、伝説的な技法、「メッサ・デ・ヴォーチェ」彼方から聞こえてきて次第に大きくなりまたフェイドアウトする音の遠近法ともいえる無限の単音。音響機器を使えば、いとも簡単にできることだが、目の前のQは無防備に立っているだけだった。
 コジマには、Qの豊かな声量はまさしく男そのものだとわかり、塔司には去勢された男の力が驚異となったのだ。
 誰もが、Qを男として認めないわけにはいかなかった。たとえどんな重度の障害を負おうと男は男として存在するのに、生殖能力や性交能力がなくなると、それだけのことで男でないと思い込む、その種の楽観は許されなかった。
 塔司もコジマも、胡散臭い汎性論を信じているわけではなく、馬鹿げた性・生殖関係の幻影を認めているわけでもない。性行為なぞ、いまだ疑似生殖行為でしかないし、実のところ性行為は発見されていないのだった。それは承知していたコジマと塔司だったが、Qは男であって男でなく、しかもどこまでも男であった。
 Qの演奏が終わったとき、めずらしく鮫島の飼い犬が、遠くで吠えるのが、かすかに聞こえた。

 コジマはQと一緒に、二階に引きあげた。
 コジマは久しぶりに自室の小さな専用キッチンで、お茶の用意をした。カストラートの喉には、温かい蜂蜜入りのお茶がいいという気がするが、大した根拠があるわけではなく、更に入れるとすれば、レモンがいいかシナモンがいいかは見当がつかない。
 夜、お茶を飲むと眠れなくなるが、眠れなくてもかまわない。
 ザーザーという水音がしているが、それは夕立ではなく、Qがシャワーを使っている音だ。
 コジマはキャミソルとパンツの寝間着でベッドに横たわる。十八世紀に作られた天蓋付き寝台に入ると、いつの日か暴漢に惨殺されるのではないかという、甘美な妄想と共に安眠できた。高価なアンティーク家具には、血塗られた歴史があらねばならず、敵勢に包囲された高貴な夫人が覚悟を決めて、毒杯をあおるというのも悪くない。
 シャワーの水音がやみ、薄手のローブを羽織ったQが浴室から出てきたところだ。コロンを首筋にたたいたり、あちこち歩きまわった後、コジマの足許の方で立ち止まり、羽のように軽いガウンをするりと床に落とした。ちょうど寝台のコジマの目の高さに、Qの下腹部が露出した。
 Qの性器は性器ともいえぬ、単なる排尿器官として、小さくひっそりと下がっていた。割礼こそ施されてはいるものの、指先ほどの亀頭は、男性器の形をそのまま縮小した玩具のように、そらぞらしくも無意味だった。
 コジマは、すべすべした無毛の肌に向かって、手をさしのべた。
 Qはコジマの傍らに滑り込むと同時に、なめらかなQの肌は絹の夜具に同化した。
 コジマは何のためらいもなく、布団を丸めて抱いて眠る時と同じように、Qの体を抱いた。そして、コジマがQを抱いているのか、コジマが絹の夜具にすっぽりいだかれているのか、区別がつかなくなる。これが性の交わりと言えるかどうか、一体性行為というのは何なのか、どうでもよくなり、生殖行動をまねた肉交が、男女の性行為ということもなかろうという気はしているのだ。
 コジマはQの小さく静かな男根にふれた。それは、ぞっとするほど冷たいという気もするし、ぬるりと生温かいようにも思える。
 ちょうど幼い頃に、雷池で泳いだ時のように、濁った水は冷たいような生ぬるいような、緑色の重い液体の中に、体が溶けてなくなってしまうような恐怖を覚えた。
 池に入ると水の中は全く見えず、見えない水の下に本当に自分の体があるのかにわかに怪しくなり、確かめるように手足をばたつかせたものだったが、それで不安が消えるわけではない。水の中で手を動かせば、手は動いているが、目には見えない水面下で密かに溶解は始まっているようにも思える。重く濁りきった水の下に、下半身がしかと存在していると、どうして言えよう。それからコジマは二度と、池で泳ごうとはしなかった。
 Qの体の手術跡はきれいに消えて、ただあるはずの物がないというに過ぎぬし、Qとコジマは、ヘテロなのかレズビアンなのかよくわからないが、大した意味はなさそうであり、そして、Qは「ぼくは男だ」と断言する。
 去勢手術は、睾丸を取り去ったというだけであって、それはほんの少し体の一部がなくなったというだけで、障害としてはごく軽度のものであり、Qはまぎれもなく男だと、断言するのだ。
 かって、性的能力を持ち女と交わったカストラートもいたということだが、それほど信じる必要はない。おそらく落ち目のファルセット歌手がカストラートという触れ込みで再起を図ったものに相違ない。
 カストラートは、男とも女とも性交する必要はないのだ。男根が勃起するという単なる生殖行動がいつしか性行為全体を覆い尽くし、人間の想像力を奪っていった。
 コジマは子供を産みたいと思っているわけではないので、男根も睾丸もどうでもいいということになってしまい、子供がほしくなったら、液体窒素に封入された冷凍精子を注文すればいいのだから、Qは障害者ですらなくなるわけだった。
 無意味な割礼と、ミニチュア細工の沈黙する亀頭をあがなうに十分な程、Qの皮膚はつややかに張り、強い弾力を持ち、それでいて柔らかく潤っていた。

 木々は勢いよく枝を張り出し、時折小鳥がけたたましく鳴いた。午後の日射しが窓ガラスを暖め、陽炎が立ちのぼり、かすかな草のにおいが鼻腔をくすぐった。
 ランチの後、塔司はQを伴って、オパールドームで催す本朝初のガーラ・コンサートの打ち合わせの為に、書斎に入った。
 コンサートの演目はすべてコロス側に任せて、塔司は招待客のリスト作りに専念した。音楽家や著名人二百人程に絞り込むのに苦心した。同伴者を含めると五百人以上に膨れ上がるはずだし、最後の最後に無理をいわせて割り込み、己の力を誇示するのを無上の喜びとしている輩も少なからずいたから、実際どれくらいの人数になるかはわからなかった。
 Qは、ロッシーニ、ヘンデル、パーセル、スカルラッティ親子などを中心に一般受けする名曲を配し、イタリア系ドイツ系イギリス系のいい所を万遍なく取り入れて、カストラートということよりもオーセンティックな演奏に重点を置いてリハーサルを進めていた。歌手達は声楽だけでなく、古楽器の演奏においても第一人者といわれている者も多く、年老いて声が出なくなっても、器楽教授として引く手あまただという。
 コロスは博物館に納まるようなオリジナル楽器を多数所有していた。さすがに大型の鍵盤楽器は旅には携帯していなかったが、それらはどこにでもあるから必要はなかった。
 ヴィオラ・ダ・ガムバ、チェロ、リュートとティオルボウといった弦楽器が中心だった。
 Qは金管楽器はあまり好まなかったが、ホールが大きいので、コルネットやサックバットというトロンボーンを使うことになるだろう。所有する楽器、ダルシャンと呼ばれるファゴット、オーボエなどに、ナケイルという小太鼓とヴァージナルといった小型鍵盤楽器すべてを演奏に使うわけではなかったが、コンサート当日は公開展示する手筈であった。
 塔司はドームに五百人分の客席を作る為に設計図を引いた。ドーム内の南端の水の上にステイジの土台を渡す為に、支柱を立てる。水田の上に、舞台も客席も湿原の木道のように、夏草の間を縫って置かれるはずだ。
 一日で組み立てて、一日で取り払ってしまう。客席用の椅子は借りることにした。
 飲み物とアペティザだけの祝祭に、入場料という無粋なものを取る気はないが、貴重な文化・伝統を守る為にご援助をと、招待状のすみに書き添えるのを忘れなかった。これで一人あたり最低十万の祝儀は見込めるはずだった。知人の映像作家が当日、記録用に十六ミリフィルムとヴィデオ撮影を引き受けてくれた。
 準備にぬかりはない。全紙大のドームの図面を用意して、プランを練った。
 塔司は、一度は建築家になろうとした時期もあった。画家になろうとしたこともある。建築か絵描きか、ピアニストになろうかと迷った挙げ句、何にもならなかった。原須コンチェルンの原須塔司でしかなかったのだ。

 それから一月余り、塔司とQは毎日のように会った。
 塔司の体内に、Qに対する敵意が醸造されつつあった。Qは人間として決定的な欠陥があるにもかかわらず、完全な存在だった。そして、性的能力がないということが果たして決定的な欠陥であるのかすら疑わしく思えるに至って、塔司の男としての存在が危機的状況にさらされ始めるということであったから、この好もしい青年を許すことはできなかった。
 コジマとただならぬ仲になっているらしいのが気に入らぬ。何がただならぬ仲なのか、わからなくなってしまうということも、一層塔司を不快にした。
 Qのヴォイスボックスから絞り出される完璧なソプラノは、毎秒6回半の均一なヴィブラート二支えられて、規則的で繊細なピッチの変動は、人を生理の内部から揺さぶる力を持っていた。
 塔司にどれほどの力があるだろうか。今まで虜にしてきた女達は、単に塔司と寝たがっていただけだし、それでも十分な魅力といえばいえるが、それだけのことだ。
 Qは文学・芸術あらゆる教養を身につけ、世界中の上流階級社会で演奏し続けて、巷間の注目を一身に集め、存在そのものが扇情的な凶器であった。
 去勢歌手になったQを前にして、何もなることがなかった塔司は、喉がひりつくような渇きを覚えた。

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  バヴァリアン・コロス/レパートリィの一例

  ゲオルク・フリーリヒ・ヘンデル
   歌劇「クセルクセス」からオンブラ・マイ・フ
   オラトリオ「ソロモン」シバの女王の入城
  ヘンリー・パーセル
   歌劇「ディードーとエネマス」「妖精の女王」
  ジョアキーノ・ロッシーニ
   「小荘厳ミサ曲」
   歌劇「パルミーラのアウレリアーノ」
     「ランスへの旅」
  アレッサンドロ・スカルラッティ
   「ポンペオ」「ピュロスとデメトリウス」
  ドメニコ・スカルラッティ
   器楽ソナタ 数曲

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 塔司は、演奏会場となるドーム一階の木道とステイジの設計図を引いた。二階はラウンジにして、演奏中も観客は自由に行き来ができるよう階段と床板にラバーの防音吸収材を張ることにした。
 たかが音楽、じっとかしこまって聴くこともない。Qの言うオーセンティシティに照らしても、昔日のイタリア・バロックオペラ劇場では、オペラ・セリア(シリアス)でさえ飲食は言うに及ばず、カードゲイムやチェスを楽しむのは当たり前で、今日のディスコティックやクラブのようなものであった。
 コンサートの規模は大きくなってしまったが、サロンで室内楽を楽しむような気軽な雰囲気の社交場が望ましかった。
 隣の連れとひそひそ話しながらソルベ水のグラスを傾けたり、座っているのに飽きたら二階のラウンジの手摺りにもたれかかったり、気が向けば踊ったり、見知った顔があるかと客の中をさがしまわったりすればいいのだった。
 照明機材やホログラフィのカタログが山と積まれ、設計図や書類が散乱する机の上を、塔司は大きく腕で一払いにした。床の上へ紙束がばさっと落ちた。
 まだまだ、やらねばならぬことが、いくらでもあった。臨時化粧室とクロウクも用意しなければならないし、当日の人手の手配もある。
 塔司は何であれやり始めると、やたら細部にまで気が向かい、その気もないのについのめりこみ深みにはまる。それは祖父から受け継いだ、悪癖だった。
 バヴァリアン・コロスがストローベリヒルでコンサートを開くというそれだけで、十分刺激的で衝撃的なことだし、歴史的出来事といっていいくらいだが、だからといって採算を度外視していいわけではない。コロスへの援助はおしまないつもりだが、常に後援者が現れるとは限らず、コロスの今後にとっても、公演活動だけで採算ラインに乗せなければ、コンサートを開く意味はないのだが、団員達は金銭面でひどく楽天的だった。不思議なことに、コロスに経理担当者はいない。だから今塔司は、興業ノウハウとまとまった収益をコロスに手渡さなければならないと思っていた。
 塔司は、鼻持ちならない成り上がりどもからは、金をいくら搾り取ってもいいと思っているから、政財界や企業関係者には、一切招待状を送らなかった。彼等にはいくら出してもいいからこのイヴェントに参加したいと思わせ、裏から手をまわして招待状を手に入れ、己の権勢に満足し、当日意気揚々と乗り込んで来るのを見越してのことだった。塔司は彼等を軽蔑し、軽蔑している者は利用し尽くしていいに決まっている。事実、知り合いの政治家や企業人は何かと便利ではあったが、それはちょっと便利だというだけのことで、大した利用のしがいがあるわけでもなかった。

 塔司は全くめずらしいことだったが、Qを三階の自室に招いた。Qの見たかったからかも知れなかったが、Qは格別のことは言わない。「趣味のいい部屋ですね」といったにとどまり、それは悪趣味といわれるより、侮蔑的とも思えた。
 塔司はQを見る時、じりじりと沸き起こる、穏やかならざる苦痛と緊張感を、持て余すようになっていた。それは普通、恋愛感情といわれるものなのだが、何かが明らかに違っている。
 Qの白磁の肌は、不具者への憐れみなど最初から退けられ、第一、外見はたぐい稀な美男であり、障害者への同情などというやわな感情の入り込む隙はない。
 男としてQが塔司より劣っている所は何一つなく、本来親友なり良きライヴァルなりとしては、理想的な関係になり得たはずだし、Qほどの才能にしろ資質にしろ知性にしろ、申し分のない相手はいない。だのに、塔司は、かすかにたじろいだ。
 誰に対しても、ためらうことなど一度としてなかった。相手が高潔で大人物であればあるほど好もしいとは思っても、それでおじけるはずもない塔司ではあったが、今、怯えに似た悪寒が周期的に襲う。女との性交能力は無意味なものに成り果て、もとより『セックスは小さな死』などという、低俗な心理学者の好む馬鹿げた世迷い言など聞く気にもなれないが、何の根拠もなく過大評価された男根は、限界以上に膨張した風船のように、あっけなく男の威信と共に、爆裂し去った。
 塔司は、初めて挫折を味わったといっていい。しかし、その鬱屈が塔司の人となりに翳りと深みを与え人間的に成長するなどという、ロマンスの主人公のような楽天的発展を信じるわけにはいかなかった。
 塔司はQに敗北する以外になく、それは両親の死をただ受け入れるしかなかったのと似て、足元の土が少しずつ波に洗われてなくなるということだった。崩壊はくい止めることはできず、塔司は後ずさりするしかないのだ。両親の死という理不尽さに悲しみを忘れ、怒りだけが溢れて身を震わせた。自分の無力さや運命の過酷さといったものに、幼い塔司は率直に怒りを爆発させることができたが、今は目の前のQの存在に、その強靱な意志に戦慄するのみだった。
 Qは、ちょうど塔司が両親を失った同じ年齢の時、去勢を受ける為に、みずから手術台にのぼったのだ。塔司は、いくつか年下のQを弟のように慈しむこともできたし、親友として遇することもできたはずだが、それは何かQに対して、礼を失することのような気がしていた。
「何か弾いて下さい」
 Qは長椅子の背に腕を乗せて、ゆったり座って言った。Qの日本語は、母親が日本人にしても、長らく異境の地にあったとは思えない程、滑らかで自然だった。両親共に健在で、まだ四十代という。どうしてQの両親は息子をカストラートにしたのだろう。経済的な理由ではありえないし、本人の意志とはいえ、十一歳の子供の一生を決する重大事に際して、何を思ったことだろう。
 塔司は請われるままに、おそらくQの好みであろうと思われる、ドメニコ・スカルラッティの単一楽章ソナタを弾いた。
 Qは立ち上がり、塔司の脇に立って譜面をめくりながら「そういう解釈もありますね」と言った。それから塔司の左隣に腰掛けて、モーツァルト四手のためのクラヴィーアソナタの譜面を無造作に広げ、塔司を見た。
 塔司はそんな譜面があったことすら記憶になく、改めて一度たりと連弾というものをしたことがなかったことに気付いた。オーケストラとコンチェルトを共演したことはあるし、独奏者の伴奏をした経験はあったが、よほど幼い頃に妹と一緒に弾いたのを除いて、四手のソナタの存在すら忘れていた。
「連弾なんて、一度も経験ありませんよ」
「でしょうね、でも一度くらい、いいじゃありませんか」
 Qは弾き始め、塔司はしばらくテーマの弾き方を聞いてから、思い切って指を鍵盤におろした。ピアノの音を耳にした時、一人で弾く時のアタックとは別種の戦慄が走った。緊張した音の連なりや、また時として思わぬ広がりをみせる響きが快い。Qの指が塔司の手の甲にわずかに触れたり、Qが右手を伸ばして譜面をめくる時、肩がちょっとさわったり、相手の体の動きを合図ににして、顔を見合わせて大きくうなずき、Qは屈託なく微笑んで、一気にコーダへと走り抜ける。神経を張りつめ興奮していく一方で、どこか心安らぐなごやかさがあるのが面白いのだが、だからといって、これ以上連弾をしてみようとは思わない。塔司は一度くらいやってみてもいいという程の思いしか持てなかった。
「合わせてくれて、ありがとう」
「とんでもない、合わせようと思って合うものではないですよ。どうです、これからも一緒にやりませんか」
「いいえ、ぼくは所詮アマチュアです。それに連弾なんて、やはり柄じゃないね」
「コンサートに一曲入れたいな、あなたとのピアノ・デュオを」
「冗談はよしてくれ。もうちょっと若い時だったら御愛嬌ということもあるが、今更居並ぶ音楽家の前で、何を弾けって言うんだ、いやだね」
 塔司は物言いが、少しきつくなっていた。
「あなたはぼくにないものを持っている。力強い音だ。あれだけ確信的な音を出す弾き手はちょっといません。考えてみて下さいよ」
「いやだね、もういい。
 研究所でも案内しよう」
 塔司はもうピアノのことは、考えたくない。Qを促して、ファクトリーへ向かった。

 工場長の梶がガラス越しに、にこやかに迎えた。
 梶はもう六十に近いというのに、白髪一つなくふさふさ豊かな頭髪をなでつけ、祖父の研究所に入所した時から時間が止まってしまったかのように、変わらない。といって、若く見えるわけでもなく、コンピューターの加齢シュミレイションのようにちぐはぐな印象だが、そう浮世離れしているわけでもなく、外見は研究者というよりも、一流商社の部長待遇といったところだった。
「ボス、めずらしいですね」
 梶の声が、スピーカーを通して流れた。
 クリーンルームに入る前に、見学者用の使い捨ての不織布製の上下の白衣を着け、靴を履き替える。紫外線シャワーの間を通り抜けて、ラボに入った。
 ドアの前に、梶とその場に居合わせた所員が並んで、出迎えていた。
 去勢歌手Qは、研究員に指導を受けて、顕微鏡を覗きながら、稲の幼芽から成長点(茎頂点)を切り取る作業に熱中している。
 塔司は研究所内で今問題になっている、アメリカの特許関連の懸案について話し合った。遺伝子工学は九十年代に入ってから、アメリカの特許攻勢で、一つの曲がり角に来ていた。もちろん、先進国が農業分野で活路を見出すとすれば、もはや知的所有権を振りかざすことしかないのだが、国家政策としての特許保護自体、科学技術の進歩、産業の発展を阻害しかねないし、同時に別の方法を開発されれば特許は無意味なものとなり、当分足の引っ張り合いは続きそうなのだ。そのまた一方では、有機農業が万能であるかのようにもてはやされ、有機農産物といいさえすれば、どんな物でも飛ぶように売れて、実際の生産能力をはるかに上まわる、有機栽培品が市場にあふれることになる。
 塔司は、バイオテクノロジーに深入りすることは、財団の姿勢としてふさわしくないと考えていた。ほとんど手詰まり状態の開発競争が続く中で、研究成果をあざ笑うかのような、植物群のアナーキーなフレキシビリティに未来が、そういうものがあるとして、期待できそうな気がする。それも、そう確かなことではないのだが、植物の内在性に頼るしか道は残されていないようにも感じ、日本は農耕民族ということになっていたが、農業が終焉を迎えようとするとき、これから日本人は何になっていくつもりなのか。塔司は、だから目先の成功に一喜一憂するだけの研究員に、財団の将来をゆだねるつもりはないのだった。
 財団の武器は唯一、消費者としての健全さなのだったが、ファクトリーの研究者は、アグリ・コマンド社やZジーン社ユニカ社とも、今や十分渡り合えるブレインは揃っているし、マニラの国際イネ研究所(IRRI)のフォードやロックフェラーのそれをはるかにしのぐ力を持っていると主張して譲らない。かねてより、バイオテクノロジー部門の予算の増額の要求が出ていた。中には強行意見を主張する者もおり、有機肥料クリーンコンポストとプラント、オパールライスの種籾生産だけでも十分研究開発費は捻出できるはずだと、独立採算制を唱える者もいたが、それは工場長の梶が抑えていた。梶は、運営方針をめぐる対立が本格化すれば、塔司は研究所を解散しかねない男だということを知っていた。全面衝突という事態になれば塔司はファーム側を押し立てるのは必死だから、それは何としても避けねばならなかった。塔司は、原須財団は僕の私物だと広言してはばからなかったし、梶は塔司の方針も正論であると思っていたので、若い研究員と財団の総帥との間で板ばさみになって苦悩するというのも、身の処し方としてはわかりやすくていいと、祖父の時代からの習い性となった諧謔癖から思うのだった。
 塔司と梶らが何やら議論している間も、Qは顕微鏡写真撮影や細胞染色の方法を教わって、作業に熱中していた。
 塔司は研究員の中に不穏の動きがあることは十分承知していたが、多国籍穀物メジャーと勝負できるなどという甘い考えも、野心もなかったので、去勢歌手Qのしなやかな手元を、ぼんやりながめていた。
「僕は、自分が案外器用だということを、発見しましたよ」
 培地のペトリ皿がずらり並んだ、ステインレス・スチール製の作業台の向こう側で、Qは満足げに言った。
「初めてにしては、いいですよ。即戦力になりますね」
 梶もうちとけて、返した。Qがいることで、男ばかりの研究所内の空気が、少し違っていた。Qとはいったい、何者なのか。塔司はQを残したまま、一人でラボを出た。

 その日の午後から、バヴァリアン・コロスの本格的なリハーサルが開始されていた。
 彼等がこの地にやってきて早三ヶ月になろうとしていた。ドーム内の作物は、いよいよ勢いを増して成長し、稲の穂の実の入りも、すこぶる良好だった。ファームの方も、あと一と月もすれば刈り入れとなり、順調な作柄といえた。
 天候のせいか、それともコロスが来てから作物の成育がいいように思うのは、ただの偶然だろうか。すべての汚水は、堆肥プラントのパーフェクトラインに流れ込む。
 野菜類や木々はつややかな葉を繁らせ、ファームの稲は芒(のぎ)がつんと痛いほどしっかり育ち、明らかに例年とは何か違う、勢いの良さだった。
 カストラート達は、第二次性徴前に去勢してしまうので性的に成熟しない。恒温動物は性的成熟によって、成長ホルモンの分泌が抑制されて成長が止まり、成体としてのスタンダードが決まるわけだが、去勢歌手達は成長ホルモンを出し続け成熟を迎えることなく、山のような巨体になるのだった。人間の成長ホルモンが植物に作用するとも思えなかったのだが、音楽が植物の成長を促すという研究もあるにはあり、よくわからぬまま、カストラートの歌声に感応するように、草木はいよいよ生い繁った。

 ついに、その日になった。
 バヴァリアン・コロス演奏会の前日から、楽器や会場の準備はすべて整っていた。
 朝から夜の開演までの間、歌手達は塔司にも会おうとはせず、まともな食事もほとんど取っていない。彼等にあてがわれているゲストルームに出入りできるのは、コジマだけになっていた。
 朝方、暖めたビスケットとお茶を運んだコジマは、常にはない歌手の表情の険しさに気圧され、大勢の聴衆の前に立つということがどういうことことか、改めて思い知った。
 ド=ギルも究・ギャラハーも小声で二言三言指示を出す以外は口を開かない。Qはビスケットさえ口にせず、少し砂糖を入れたお茶を口に含んだだけだった。
 ある者は塩水でうがいを繰り返したり、日頃はだらしなく肥え太っているだけの歌手達も、張りつめた表情で居住まいを正し、こわばる口元を神経質に動かしたりしていた。
 コジマはスズキにアイロンを当てさせたステイジ衣装の掛かったラックを、部屋の入り口で受け取り、それきりスズキを閉め出した。
 二百年以上も前から伝わるというその衣装は、黴のようなあるいは少しすえた臭いがした。その昔、最も染色がむつかしいが為、贅沢で豪華な色とされた黒を基調にした、どちらかといえば舞台衣装としては、落ち着いているだろうか。きらびやかな縫い取りや、ジェムがちりばめられてはいるが、二百年の歳月は華やかな衣装から、けばけばしさを洗い流している。黒の染料は絹を損じやすいといわれており、今日まで伝わっているのは、奇跡としか思えなかった。
 Qは黒いチュニックの上に、胴着のダブレットをつけた。胴着にだけ、金糸銀糸の刺繍の中に宝石が埋め込まれている。大きなダイヤモンドはブリリアンカットではなく、その大きさばかりが目立つトラップカットのような甘い仕上げではあるし、真珠は表面の真珠層の炭酸カルシウムが曇って古びてはいても、依然怪しい光を放っている。幼態成熟・ネオテニー(neoteny)の奇形児Qは、歳月の意匠にやさしく包まれていた。
 世界中の人々が十数人の異人種に注目している。歌手の緊張はいやが上にも高まり、Qはいつになく頬を紅潮させて、最後に思い切ったように、百五十六玉のロザリオをその首にかけた。

 5章 タンブルウィードのように    
       I feel like tumblle weed             

 夕刻を迎えたハイウェイ61は、リムジンやらポルシェやらロータスエランやら、派手なコンヴァーティブルやら怪しげな黒塗りのステイションワゴンやらが、ぞろぞろと連なって、オビ川の分岐点から、時ならぬ交通渋滞を引き起こし、ストローベリヒルの入り口ダダ門まで延々と一キロメートル以上に渡って車列が続いた。
 常は広大な敷地は閑散としている原須財団本部構内も、今日は三百台に近い車が無秩序に駐められており、雷池近くにも、めったに人が入らない林のあちこちにも色とりどりの車が繁みの間からのぞいていた。
 ローブデコルテとホワイトタイに正装した男女が木々の間を縫って次々と現れ、オリザホールの方へ向かう。女達はガウンの裾をたくし上げ、森の小径を歩きにくそうにやってきた。

 塔司はその日、鯨丘夫人と昼食の約束をしていた。
 二階の夫人のラウンジは、気持ちのいい部屋だ。大きく窓があき、唯一バルコニーが付いている。窓辺に木の枝がそよぎ、木陰で物思いにふけることもできる。ちょうど恋人が逢い引きのために木によじ登ってくるには格好の枝ぶりだが、夫人の部屋の窓の下で、セレナーデを奏でる者はいない。
 塔司はムジカーノ達とは、朝から一度も顔を合わせていなかった。
 コンサートように身支度をする前に、夫人の部屋で遅い昼食を取ることになっていた。
「私、まだ一度も彼等の歌声を、聞いておりませんのよ」
「僕もちょっと、小品を一曲聞いただけだ。本番はどんな声を出すのかはわからない。
 正直、あのドームに肉声だけでいけるものかどうか。音響的に、そういいともいえないしね」
「去勢歌手って、一体どんな連中ですの。全くの興味本位ですけれど」
「さあね」
「性転換者とも違うんでしょう」
[だろうね、彼等は、性自体の目的で手術を受けたわけではないし、性行動の面でどうなったとしてもそれは結果であって、その辺はそれぞれ趣味の問題だから、勝手にするさ]
「ま、それはそうでしょうね。
 でも、コジマ様はどういうおつもりなんでしょう。困ったことですわ」
「誰も困らないさ、ほっておけばいい」
「でも、これから先、原須家はどうなるんです。少しは考えていただかないと。
 言いたくはありませんが、塔司様も早く、いい方とご一緒になられて下さいな」
「どうなろうと、なるまいと、大した変わりはないさ。
 お祖父様のころから、ここはこんなものだったよ」
「でも先のことを考えますと、どんな形にせよ、お子様だけはおつくりいただかないと」
「先のことは、誰もいなくなってもいいし、誰かが残ったら、残った者が何とかするさ、そういうものだよ。
 子供は惟喬もいるし、ナツメの子のモリとシガもいるじゃないか」
「悪い冗談は、おやめ下さいな」
 夫人の好みで、部屋の冷房は切ってある。時折、マルメロの木陰から涼しい風が入ってはくるものの、日中はじっとしていても汗がじんわりとにじみ、冷えすぎたビールがちょうどよかった。
 昼食を終え着替えを済ませて、客を迎える準備は滞りなく進んだ。

 オリザホールの脇から直接オパールドームに入る、一般見学者用の橋の上を、着飾った人々の群れが移動していく。その橋は、ただブリッジと呼ばれていて名前はなく、北側の車橋のホートン橋と区別されていた。
 ブリッジの鋳物製の欄干に身を乗り出して、下のレン川に何か投げ込んだり、思い思いにゆったりと会場の方へ、人々は流れていく。
 薄暮の空に金星がまたたき、ねぐらへ帰る鳥達は騒がしく、風がなぎ時が止まり、鳥の鳴き声は行き場を失う。
 歩行者専用の幅一メートル程のブリッジは、緩いアーチを描き少しばかり上に湾曲している。平らであれば、そのまま行き過ぎてしまうとkろを、中央の弧の頂点まで来ると、わずかの高みであっても、思わず立ち止まって、不思議と誰でもつい下の流れをのぞき込まずにはいられない。
 塔司は誰もいなくなった小さな橋を、最後に渡った。
 原須塔司は、オパールドームの二階に陣取り、いよいよバヴァリアンコロスの演奏会は始まろうとしていた。
 前座の古楽アンサンブルが、舞曲や心地よい俗曲を演奏し、客達は思い思いに談笑したりして、照明はまだ明るくありきたりのパーティのような出だしだった。ただ一つ目を引くのは、舞台上の下手に作られた、コロスの控え室だった。
 鏡張りの箱部屋をステイジ端に控えて、そのまわりを半透明のローマングラスのようなアクリル板のオブジェが取り巻いている。ドームの西側から入った客達は、まず最初に、はるか彼方に光り輝く、原須塔司作のオブジェを目にすることになる。それから次に、一面の稲田に圧倒されるのだ。
 いよいよガラスのトンネルから、カストラート達がその巨体とは裏腹に、霧のようにふっと現れた。その瞬間人工光線のオーロラの帯が流れ出し、それまでざわついていた場内は一瞬にして沈黙の海となり、聴衆ですらなくなって存在は無意味に成り果て、プレイヤーとオーディエンスの蜜月などという甘い考えは吹き飛ぶ。昨日までのただのファット・ホグは、舞台に立った途端、万物の上に君臨する帝王へと変貌した。
 レインボウ・ホログラム光線の中でコロスはゆったりした中にも緊張感漂うポリフォニーを奏で、多声部が縦横に錯綜し、また響き合い、その度ごとに聴衆は鞭打たれた。
 合唱が終わると、すべての明かりは落とされ、絖絹(ぬめぎぬ)の闇が降りてきた。あちこちで、ふうと溜息がもれる間もなく、上手にスポットライトが当たり、一筋の光の中で、プリモウォーモ・Qの驚異の一声がとどろいた。歌手のまわりの空気の振動は、円屋根をはいガラスに突き刺さり、一丸となって、人々の耳という耳、無防備に露出した肌という肌に容赦なく押し寄せ、皮膚を浸食した。
 塔司は不覚にも、全身寒気立ち、ただうなだれるばかりだった。座っているものは座ったまま、立っている者は立ったなりで、魂を抜き取られたように口を半ば開け、そのあとは音楽を聴いてすらいないように見えた。
 世界を震撼させるエコーの化身を前にして、あろうことか、スズキ一人がくすっと笑った。
 塔司の後ろに立って控えていたスズキは、口元に手を当て必死にこらえてはいるが、肩を小刻みに上下に震わせた。
 スズキは初めて見聞きする事物に対し、正直な反応なのか、単に異質の物を受け入れることができないのか、全くの馬鹿なのか、見てはならぬもの見てしまった時の子供のように、恥ずかしそうに照れ臭そうに、それでも体を振らして、くすくすと忍び笑いをやめようとはしない。
 多分、スズキはどうしようもない馬鹿なのだ。厳粛な旋律が流れ緊張感が高まる程に更に引きつった笑い声をもらした。
 塔司は、スズキの呆れ果てた反応に苛立ち、それで辛うじて、去勢歌手ヴィルトウォーゾの歌声に涙が溢れそうになるのを抑えた。
 スズキと塔司以外は、皆ムジコの幻術に目がくらんで催眠状態に陥り、客席の前のほうではステイジ下に夢遊病者さながらに、白いドレスの女が舞い、薄物の絹の裾をひらつかせていた。陶酔仕切っての果てか、あるいは自己顕示の為か、それは幾分わざとらしい。女は日頃、イザドラ・ダンカンの生まれ変わりを自ら標榜するバレリーナなのだが、固定化した退屈なモダンバレエも、背景に過ぎぬとなれば、気にはならない。
 塔司は予期せぬパフォーマンスに鼻白みながらも、そう悪くはないし、カストラートの歌声を神格化するには、持ってこいのエピソードにはなるはずだから、スズキが笑い出したことを除けば、公演は成功といえた。幸いにも、スズキの笑い声に気付いた者は、塔司以外にいなかった。
 去勢者エウヌコの、カンターやオペラセリアが終わり、一団はしずしずと、ガラスの小径へ消えていった。
 一転、場内は明るくなりステイジ下に控えていた古楽アンサンブルが、軽快な中にも典雅なスペイン風パヴァーヌを奏で始めると、客達は思い出したように我に返り、拍手を送り続けた。
 鳴りやまぬ拍手の中を、痩身にして秀麗なるムジコが現れ、うやうやしく御辞儀をした。続いてコロスが一人二人と、前半とは打って変わって、観客に愛嬌を振りまきながら陽気な調子でやってきて、大袈裟な身振りで明るいオペラブッファのレシタティーヴォを次々と口ずさんだ。コロスの叙唱を遮るように、プリモのアリアが響き渡り、そのスリリングなパッセージに聴衆は狂喜乱舞した。
 女達は身に着けていた宝石をはずして、舞台に向かって投げ与えた。かつて王族貴族は最大の賛辞にはそうしたものだと信じ切っていたし、美しい愛人には宝石をちりばめた袖を外して投げたといわれるが、今の服は別袖になっていず、はずすことはできないので、袖を投げられなくなってからは、身に着けた宝石を投げるようになったというのだ。そういうたぐいの風説はほとんどの場合嘘なのだが、誰かが信じて真に受け一度でも実行してしまえば本当の事になり、また新たな伝説が捏造されていくのだった。
 興奮が幾分冷めかけた頃、カストラート数人が古楽器をかかえて舞台に立ち、ド=ギルとQが、ハープシコードとフォルテピアノの前に座り、ガリヤードを奏でた。
 誰ともなく軽快かつ優雅な曲に合わせて踊り始め、踊るものは踊り、踊らぬ者は二階のラウンジに上がり、パンチの入ったグラスを手に仲間と小声で語らった。
 コジマはソファに深々と身を預け、暗い顔をしている。
 塔司はほんの少しパンチの入ったゴブレットと、もう一つのソーダだけのタンブラーを持って、コジマに差し出した。
「どうした、気分は」
「大丈夫よ、ただ、こんなに大勢の人達は久しぶりなものだから」
「そうだな、ぼくたちはすっかり田舎者になってしまったわけだ」
「もう都会暮らしは、できないのかしらね。こんな田舎もいやだけど。
 だんだん住む所が、なくなっていくようだわ」
「演奏はどうだった」
「リハーサルとは全く違ったわ。
 この為だけに生きているのね、彼等は。生きているものには、何でも、音楽はいいらしいわ。
 近代以降は使われなくなった、短二度や長七度の強烈な不協和音群は、東ヨーロッパでは、植物を刺激して穀物の豊饒を約束すると、信じられているというわ。
 今年は豊饒ね」
「そういうものかね。
 ところで、彼等はいつ発つんだ。僕はずっといてかまわないが、いつかは出ていくんだろう」
「そうね。いつまでも、ここにいるわけにはいかない。
 来年は南米に行くことになっているので、ヴィラ・ロボスの曲をレパートリィに入れることにしたの。南米のパトロンは、昔はゴム園御殿のドンだったけれど、今は麻薬王かしらね」
 塔司は、コジマがやがてストローベリヒルを出ていくことを知っていた、歌手達と一緒に。
 コジマは以外にも、精力的にバヴァリアン・コロスのマネジメントを行った。それはオリザホールで、一人うち沈んでいた頃に比べてはるかに楽しく、自分の能力を思い出させてくれ、たとい日常の取るに足りぬことではあっても、一つ一つ雑務をこなしていくうちに生気がよみがえってくるのがわかり、かつては軽蔑しきっていた、生命力とか活力とか、躍動感とか明朗さとか快活といったようなものも、そう悪くはないと思い始めている。
 歌手達の気分転換になればと、久しぶりにドライヴに出て、車の運転が考えていた以上に上手だったことに、コジマ自身驚いていた。一時カーレイサーの恋人を持っていたことを思い出し、それは人生もカーレイスと心得ている下らぬ男で、別れた後何の感慨もなかったが、運転技術という点では影響を残したことになった。
 コロスの団員に代わって国際電話を受ける時も、忘れていたはずの外国語がすらすら口を突いて出てくるのが心地良く、ふと敏腕プロデューサーにでもなったような錯覚を起こしそうで、愉快この上ない。エウヌコ達の中にいると、アスペンのサマーキャンプに行ったような気分になったり、また厳格な寄宿学校の舎監にでもなったような具合だった。
 当分の間コジマは合唱団と行動を共にすることになるだろうし、少なくともブラジルには行くはずだった。
 コジマは兄と離れることが可能だということが信じられない。両親が死んでからというもの、いつでも傍らには兄がいた。兄がいなくても生きていけるなどと考えたこともなかったし、あってはならぬことだった。だが、今はQと旅立つことができる。
 世界中どこにいても、一日か二日で帰ってこられはするのだが、兄のもとを離れるということは、いよいよはっきりしてくる。

 オパールドームの興奮は頂点に達し、われんばかりの歓声が幾度となくカーテンコールを求め、その度に歌手達が現れては引っ込みし、喝采の呼び声は鳴りやまず、コジマの意識とはかかわりなく、それでいて無遠慮にコジマの神経を掻き乱し、昂らせた。
 人々は足を踏み鳴らし、椅子の上に立ち上がり、走りまわり、踊り狂い、嬌声を発し、悲鳴をあげ、騒擾と混乱はいつ果てるとも知れず続いた。
 コジマは横に立っている兄を見た。
 牛に乗ったエウロパのブロンズ像に、背をもたせかけて、時折思い出したように気のない拍手を送っている。そのブロンズ像は、希有の才能・呂伝の作だ。彫刻家自身が、牛に乗ったエウロパだと言うのだからそうなのだろうが、融け出した氷柱のようにだらりとして、青銅の塊にしか過ぎないのだった。
 たった今になって、コジマは兄がずっと一人だったのだということが、痛いほどよくわかってくる。兄はいつもコジマのそばにい、望むことは何でもかなえてくれたが、兄に寄り添う者は誰一人いなかったのだ。
 コジマは立ち上がり、塔司の胸に顔を押しつけ、兄を抱きしめた。兄もコジマの肩に腕をまわし、同じようにした。
 塔司にはわかっていたろう。妹は出ていく。
 兄妹は、鳴り止まぬ歓声と喧噪の中で、しっかりと互いを抱きとめた。
 それは恋人達のようにも、親子のようにも見え、親友のようにも、傷ついた抵抗運動(レジスタンス)の同志達のようにも見えた。
(完)

<備考>
外来語の表記については、辞書を引く際の便宜を考え、できるだけ標準的な英語の発音に添うようにしたが、今日ことにアメリカでは長母音・二重母音の区別の厳密さは失われつつある由なので、その点は、日本の習慣・慣行に従った。
ただ、[ei]につき、e の長母音はすでに、英語の発音から失われているので、エーとはせず、エイとした。

(参考図書類)
日本農書全集第七十一巻 絵農書(一)           農山漁村文化協会
イナ作の基本技術           橋川 潮      農文協
豪快イネつくり            薄井勝利      農文協
農業を考える時代           渡部忠世      農文協
イネの作業便利帳           高島忠行      農文協
資本主義を語る            岩井克人      講談社
日本のおコメ             村野雅義      情報センター出版
田んぼの謎              村野雅義      ユージン社
公開講座61 コメ                    東京大学出版会
米                  星寛治・高松治   学陽書房
コメの人類学             大貫恵美子     岩波書店
百姓をやりたい            安達生恒      三一新書
植物生理学              増田芳雄      放送大学教育振興会
科学朝日 一九九三・一月号                朝日新聞社
ジャポニカゲーム           軍司貞則      小学館
カムイ伝               白土三平      小学館文庫
稲の大地               渡部忠世      小学館
民族音楽               徳丸吉彦      放送大学教育振興会
楽譜の歴史              皆川達夫      音楽之友社
ルネサンスバロック 名曲各盤100  皆川達夫      音楽之友社
楽器           ダイヤグラムグループ      マール社
楽器の博物誌                       朝日新聞社
ピアノを読む本「音楽を読む本」編         ヤマハ ミュージック メディア
世界を聴いた男(小泉文夫と民族音楽) 岡田真紀      平凡社
古楽の復活       ハリー・ハスケル         東京書籍
ベル・カント唱法    コーネリウス・L・リード      音楽之友社
ハンガリーの音楽    シャーロシ・バーリント      音楽之友社
解剖学者のノート    フランク・ゴンザレス・クルッシ   早川書房
音楽用語辞典                       リットーミュージック
カストラート/カウンターテナー    ウル叢書      ペヨトル工房
カストラートの歴史   パトリック・バルビュ       筑摩書房
カストラートの世界   アンガス・ヘリオット       国書刊行会
カストラート      アンドレ・コルビオ        新潮文庫
ユリイカ臨時増刊    モーツァルト(1991/8)   青土社
現代思想臨時増刊    もう一つの音楽史(1990/12)青土社
オトラントの城     ホレス・ウォポール        国書刊行会
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カストラート/オリジナル・サウンドトラック        ポリグラム
カストラートの時代                    東芝EMI
愛の笛/ディヴィッド・マンロウ・リコーダー名曲集     ポリドール・ロンドン
バード/3声,4声,5声のミサ曲 デラーコンソート
                  アルフレッド・デラー 新星堂
シェイクスピア劇の音楽/デラー・コンソート
                  アルフレッド・デラー キング
モーツァルト二つのロンド/四手のソナタ
                   レヴィン・ビルソン ワーナー・パイオニア
バロック名曲のすべて/トレヴァー・ピノック ベストアルバム
                             アルヒーフ(ポリドール)
不滅のマリア・カラス                   東芝EMI
パーセル・オード集 ピノック・イングリッシュ・コンサート合唱団
                             アルヒーフ
プレトリウス/テレプシコーレとモテット集/マンロウシリーズ
                             東芝EMI

(ヴィデオ)
カストラート                       日本コロンビア

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