風姿訛伝
または凡庸な田舎絵師の肖像  第一部

古井みち子 作 (無断転載を禁じます) 

 寺の本堂の脇にポプラの木がある。
 浩司はその木にゴザを敷き、首に一反風呂敷をまいたなりですわっていた。
 良念さんがまげの元結を切った。
 浩司の髪はばさばさとくずれるように首のまわりに落ちてきた。所々固まったままで、不格好に中ぶらりんと下がっている。びん付け油が不快に臭った。
 浩司が水墨画の修業に寺に入ってから、もう三年もたった。
 寺の円海師は旧城下でその名を知らぬ者はないほどの名筆を謳われていた。大和絵の師匠が、書も水墨も修めておかないと田舎では食っていけぬと、この寺に送ってくれたのだった。ポプラの木は、浩司がちょうどこの寺に来た年に、視察でまわっているヤソさんが苗木を置いていったものだ。驚くほど成長の早いその木は、もう一丈を越える高さになっていた。
 すでに散髪脱刀令が出されて久しい。まげを結っているものなど、よほど田舎の老人か偏屈者しかいない。
 浩司は偏屈者と思われるのはかまわなかったが、外を歩くと子供が後からついてきてはやし立てるのには閉口していた。
 寺を出るのを潮に、遅ればせながらザンギリ頭にしようと決めた。狭いながらも月代(さかやき)が入っているので、一度は丸坊主にしなければならない。寺を出る段になって頭を丸めようとは、皮肉なものだった。
 頭にカミソリが当たっているので首は動かせないが、後ろで寺男の源さんが箒を使っている音が聞こえている。
 捨て子同然で寺に入った小僧はまだ幼く、庭で草むしりをしているが、見たところはほとんど遊んでばかりいる。
 本堂の東側に池をめぐらし、宿房が続いているあちこちを駆けまわっていた。
 良念さんは、自分も小さい時に寺に入ってつらい思いをしたからと、小僧には何も言わないのだが、それがいいのかどうかはわからない。良念様が甘やかすから何もおぼえない、と源さんがこぼしていた。
 良念とは年が近いせいもあって、浩司は寺に来た最初からうちとけていた。
 良念さんが読経の間、横顔を写生する。実物を見て描くのだという西洋伝来の写実という形式も遠近法も、おぼろげに納得しかけてはいる浩司だった。
 良念の無駄のない端正な顔だちを、何枚描いたことだろう。法事の折には檀家衆の娘達が良念のまわりに集まって、それはにぎやかなもので、目ざとくみつけた娘に絵を無心されるのが常だった。なかには何枚も一度に注文する者もいて、幾ばくかの実入りは期待できた。
 そんなわけで浩司のまわりも何かと娘達はかまびすしかったが、それは浩司が有髪であることの気安さからに相違いない。しかし、自分では、容貌にしろ何にしろ人並なのが一番便利だと思っていたから、一向にかまわないのだ。
 檀家をまわるのは良念さんの役目になっているから、帰りには持ちきれないほどの供物を抱えてくる。その中には明らかに良念目当てと思われる、白羽二重やら足袋やら帛紗(ふくさ)やらも入っていた。
 住職は妻帯していないので寺に女っ気はないが、五のつく日には嫁入り前の娘達が行儀見習いと称して、書だ生け花だ茶の湯だといって通ってきた。
 高齢の師に代って良念さんが教えるようになると、いつからか浩司も同席するようになっていた。堅気の若い娘といっしょにいる機会などめったにないことで、稽古の日が楽しみではあった。堅物の良念さんも悪い気はしないとみえ、わざと水をこぼしたりする娘もあるが、それをただにこにこ見ている。
 源さんもその日ばかりは庫裏(くり)で、通いの下働きの女衆と娘のお供の者たちがお喋べりに興じている中へ入って、まんざらでもなさそうだった。

 浩司は剃り上った頭を一なでして、あまりの頼りなさにぶるっと身震いした。
「やあ、さっぱりしました」
「三月(みつき)もすれば何とかなりますよ」
 浩司は立ち上がって、軽袗(かるさん)の膝をはらった。
 髪がなくなるとさぞ涼しいだろうと思っていたが、日向に出てみて案外暑いものだということがわかり、小僧が手拭いでほお被りしているのに合点がいった。
 後は源さんにまかせて、二人は歩き出した。
 小僧が寄ってきて、浩司を見上げた。
「浩司さまも、坊様になるのか」
「いや、ちがうさ。ザンギリ頭にするんだよ」
 小僧は泥だらけの手が衣につかないように腕をひろげて、まぶしそうに絶えずきょろきょろ見まわしている。
 良念が池のほうを指すと、その方向へかけ出していった。
「明日の稽古は表書院を使うことになりました。コーさんも出てください」
「いや、私は遠慮しときます。お出迎えくらいはするが。檀家の娘達は近くで便利がいいからくるんだが、あちらは町衆の流儀は困るというんだから、どうも偉い人は苦手だ。老師は出るでしょ」
「ええ」
「私なんぞ下賎の者は表書院へ上がるのも恐れ多い。どうせ気位ばかり高い、鼻持ちならない人達でしょう」
「そういう先入観はよくありませんね。金持ちも貧乏人も同じことです。善人も悪人も同じ数だけいます。女だから弱いというものでもないし、男だから強いわけでもない。そういう数は同じですよ」
「そういうもんですかね」
 浩司はつるつるになった頭をなでた。当分頭に手をやるのがくせになってしまいそうだ。
「なかなかいいもんでしょう」
「しばらく、おとなしくしてますよ」
「西洋人がきて利根川に鉄の橋を架けるそうです。開通は何年も先のことになるでしょうが。そうすればコーさんの在もすぐですよ。木の橋のように大水が出てもながされることはないそうです」
 先年の大水で橋は流され、寺の望楼に登ればすぐそこに見えても川のあちら側とこちらは別の時間が流れていた。
 浩司は川向こうの在所にもう何年も帰っていない。
 夏の暑い盛りには、泳ぎに自信のある者が頭だけ水面に出して渡っていく姿が見られたが、旧城下のこのあたりの流れは、かなりきつかった。

 山のせせらぎから始まる利根川はいくつもの支流を集めて水量を増し、平野に出るとうねうねと蛇行する。雪解け水を集める頃は茶褐色に染まった濁流が押し寄せ、秋の嵐の大水が出るたびに両岸を激流がえぐって、大河は気まぐれにその流域を変えていった。
 だが、今はむき出しの崖が続く侵食された大地の底を川は軽やかな水音をたてて流れている。
 三方から山が迫り、冬の北風はことのほか厳しかったが、内陸性気候特有の真夏の猛暑でさえ秋の収穫を約束していたし、川は氾濫を繰り返すごとに肥沃(ひよく)な田畑をつくっていった。
 利根川の中流域に位置するその城下町は、明治の御一新この方賊軍という汚名は免れなかったものの、市井の暮らしは何ほども変らない。
 かって、太田道潅の築城になるという城が崖の上にたっていた。川の曲がりの急流に後ろを守られて堅固を誇っていたが、城がなくなった今となっては、ただ不便なばかりだった。向こうの岸に行くには、三里ばかり下流の渡し船に頼るしかなかった。
 
 浩司よりいくらか長身の良念は、半歩前を歩いていた。
「これからは、世の中どんどん変っていきますね」
 浩司は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
 最近は、眉を落としてお歯黒をした婦人もめっきり少なくなり、洋服の紳士を見かけることもあった。
 浩司は絵の師匠がまげを結っていたものだから義理立てのつもりだったが、もっと早くに散髪すればよかったと、今になって思うのだった。
 もっとも、師匠にしたところで、通ってくる髪結い婆々が、仕事がなくなったとこぼすものだから、婆々の生きているうちはまげを結っていようというつもりだったのかもしれない。大した腕もなく新しい技術もおぼつかないとなれば、客があるわけがなく、寺へ来てからも浩司は、この髪結いと縁が切れなかったのだ。

 表書院の障子を開け放って、庭の遠州燈篭を見やった。
 以前、表書院を使うという折に、気を利かせたつもりの小女が、せっかく付いた苔をきれいに落として磨き上げてしまった。それを見ても老師は、ほう、きれいになりましたのお、とにこにこしているばかりだった。そういうことはきちんと教えておいたほうがいいと、浩司は思うのだったが、老師の考えはまた別のところにあったようだ。
 多少、風情は出てきたがまだまだだな、と浩司は頭をなでてにやりとした。
 良念さんは明日の準備に、唐物(からもの)の茶道具を出している。薄茶だし風炉(ふろ)の季節でもあり、それほどのこともあるまいと浩司は手を出さないが、実のところ高価な茶道具に粗相があってはと遠慮していた。
 良念は、燕の金蒔絵(まきえ)の香合(ごう)と、老師の手になる歌切りの掛け物を改めていた。
 掛け物は巻きぐせを取るため床の間にかけたままにして、香合はまた箱に納めた。
 大江山 生野の道のとほければ
   まだふみもみず 天の橋立
 小式部の内侍の歌を選んだのは、若くて聡明な婦人を歓迎するという意味なのか、無粋な浩司にはわからない。恥をかかない程度に正客のまねをするだけでも肩が凝る。どのみち浩司には縁のない世界のことではあったし、三年もの間寺に厄介になっていても所詮は部外者だった。毎日寺で起こる出来事も、当たり前の日常も、しかとはわかっていない。居候の気楽な身分であれば、煩瑣(はんさ)なことなどしりたくもないが、他の四人は寺のどこかで別の空間を持っているような気がしている。本当のところ、浩司は小僧ほどにも信用されていないのかもしれなかった。
 いずれ寺を出ていくのだからそれも当然だが、何か薄皮一枚向う側で時間が流れていくようなもどかしさを感じている。

 良念は、その日朝早くから、茶会の準備に忙しい。
 浩司が書院をのぞくと、床の間に青磁の花瓶に射干(しゃが)の花が飾ってあった。
 もうみんな出迎えのために外に出ているとみえる。しんと静まり返った書院に一輪の花が妙になまなましい。
 池のまわりにはみごとな花菖蒲が咲き誇っているのに、わざわざ射干を選ぶのはわからないが、いくら書院とはいえ、茶の湯とはそういうものらしい。
 成金商人達の中には、台子飾りに舶来の時計や写真機など珍しいものは何でも並べる者があるらしい。良念さんが知ったら何と言うだろう。
 浩司は反故紙をとじた写生帳に、矢立てを取って花を写していた。
 それにしても、この雑草のような花の肉厚な図太いなまめかしさは何としたことだろう。
 野の花がひなびているなんて、とんでもない迷信だ。
 園芸品種の大輪の花びらの、向うが透けて見えそうな頼りない間延びした薄さが、浩司の性にあっていた、いずれ枯れるのだから、薄っぺらでひ弱でいいじゃないかと思っている。
 むせ返るような濃密な野生を受け止める力なんて、浩司にはありそうもなかった。

 なにやらあたりが騒がしい。
 良念さんを先頭に大勢がやってきた。小僧まで後ろのほうでちょろちょろしている。
一団は少し低くなっている控えの間を、寄り付きにして座った。
 浩司は写生に夢中になっていて、引っ込む機会を失ってしまった。
 が、挨拶をしたら早々に逃げ出そうと、ひょいと横を見たら、いつの間にかもう老師が書院のすみに座していた。奥からまわったものらしく、浩司が客達に気を取られている間に、すうっと入ってきていた。老師はいつもそうだった。
 共の小女三人と小僧は神妙に控えていたが、若い娘を中にはさんで中年の婦人二人が書院に上がった。
 娘のほうより、乳母らしい二人がかえって御殿女中のように気位が高く気むつかしそうな顔をしている。
 老師の御点前でお服を頂いているのだが、三人共皆堂々とした客ぶりで、今更けいこの必要もないだろうと思うのだが、これが、偉い人達の社交というものなのだろう。
 控の間の子供達は、となりをつついたり、顔を見合わせてはきょろきょろしたり、居眠りしたりしていた。
 浩司はまだ何とかうまく抜け出せないものかと頭を上げたら、良念さんと目があってしまった。
「川向うの絵師の浩司さんです」
 浩司はただ恐縮してへへと、頭を下げた。
 まずいな、これじゃ逃げ出せない。
 顔を上げると、もう老師の姿はなかった。 どうして師は音をたてずに歩けるのだろう。
 老師が退出した気安さからか、皆さきほどよりは、よほどうちとけた表情になっていた。
 浩司は、師が偉い人だということはわかっていたが、どれくらい偉いのかということになると皆目、見当もつかない。法橋上人といわれても、わかるはずもなかった。
 一人の乳母は下駄のような顔をしている。
「お上人様のお点前でお服を頂き、夢のようです」
 と言えば、もう一人の白瓜に垂れ目のほうが、
「お手本の書も頂戴して、これまで勤めてきたかいがありました」
 と言って袂で顔をかくし涙を流していた。
 泣くほどのこともあるまいと浩司は思っているが、挨拶がわりに泣く女もいるから、その口なのだろう。
 浩司は、百合子様というその人を、どうせ縁のないおひい様だからと、よく見ていなかったが、まともに見ると、やはり美しかった。
 美人画はあまり得意ではないが、それでも○○小町だの何のという大首絵や錦絵も描いてきた。顔立ちはおそらく、それらの町娘のほうが上だったが、なにか別の品格がある。そう感じるのは恐縮しているせいばかりでもなかろう。
 近ごろはやり出した束髪に木目模様の変わった絹地の蝶結びを飾っている。
「あの方も、頭を丸めておいでかしら」
 その人は案外はっきりした声で快活に言った。
「いえ,浩司さんは、きのうまでまげを結っていたのです。これから髪をのばしてザンギリ頭の西洋紳士になろうというのです」
 良念さんはにこにこしている。
「いいえ、そんなんじゃ…」
「それでは、今度おじゃまする時に、お帽子を持ってさしあげてよ」
「とんでもない」
 ゲタ乳母が「それはよござんすね」と歯切れ良く言った。
 浩司は自分のことが話題になると居心地が悪く落ち着かなかったし、何を言ってお相手をしたものか見当がつかなかったが、ともかく話題を変えるほうがいいことは確からしかった。
「女学校というところへ、お通いだそうで」
「百合子様はクイーンズ・イングリッシュという外国語も学ばれておいでです。英国のヴィクトリアとおっしゃる女王様のお国でござんすよ」
「へえ、メリケンさんとは違うんですか」
「違いますです」
 良念さんはあい変わらずにこにこして何も言わないが、ずっと百合子様を見ているのは、単に姿勢を正して正面を向いているだけなのか、見とれているのかはわからない。
「でも、イギリスとアメリカで言葉はそれほど違いませんは。東京と大阪くらいのものですことよ」
「髪飾り布は、なかなか見かけないものですね」
「よくお気付きね。西洋のモアレという生地ですのよ。
 タフタというものに型押しするということですわ。
 今、何をお描きになって」
「もうすぐ寺を出ますから、残していく掛け軸の花鳥画にかかろうと思っています。
 寺には古今の名品がずい分とあって、私なんぞの作はじゃまになるだけでしょうが、気持ちです」
「そんなことはありません。浩司さんの筆はなかなかのものです」
 良念さんが口を開いた。
 御婦人方が一斉に声の主に視線を移したので、良念はめずらしく顔を赤らめ口ごもった。
 浩司は、良念さんでも動揺することがあるのかとおかしかった。
 今度は良念さんは早口にせきこんだ。
「西洋人の橋梁技師の通事役をなさるとお聞きしました」
「お止めしたんでござんすよ。羅紗綿などと陰口をたたく者もおりましてね。
 でも、こんな田舎では英語がわかる人がほかに誰もいませんもの、仕方ござんせんよ。
 まあ、まあ、私ときたらぺらぺらと…。
 今日のところは、顔合わせということで、このくらいにしましょう」
 浩司は一行が去ってから、あくびを一つして足をくずした。
 見送りを忘れていたのに気付き、門の外に目をやった。
 人力車が三台続き、その後を供の娘達がちょこちょこ駆けていった。
 浩司は花鳥画の話が出たのを思いだしている。
 こうしてはいられない、一向にはかどっていないのだ。下絵はできていたが、本画に入るきっかけがなかなかつかめないでいた。
 その気になるとじっとしてはいられなかった。絵絹張りだけでもしておこう。
 浩司はあてがわれている離れ座敷へ急いだ。離れは敷地の東隅にあって、元々何に使っていたかは、わかりかねたが、厨に近く住職の部屋からは遠いのがありがたかった。

 材料は全部そろっている。
 木枠に正絹(すずし)を張り、糊が乾くのを待ってにじみ止めのドウサ引きの準備にかかる。
 火鉢の鉄瓶をはずし、土鍋をかわりにのせてニカワをとかしていると、体中から汗がにじんできた。まったく因果な商売だ。
 冬場はまだしも、少しいい陽気になってくると、つくづく火鉢がうらめしい。
 鍋を火からおろし生みょうばんを入れて晒し布でこし、冷めるまでの間、ぼんやり下絵の画仙紙を遠くからながめていた。
 山鳥と牡丹の図が、三年間の老師に対する礼として適当かどうかはわからなかったが、下を向いた山鳥の尾が天に向ってすっと伸びているところは勢いがあって、なかなかいいんじゃないかと思っている。
 小下絵では鳥は二羽描いてみたが、どうにもうるさいし山鳥がつがいというのもおかしなことだったので、一羽にしたがやはりこのほうがすっきりしていい。
 どうも絹本は緊張していけない。
 カキ殻を焼いて精製した胡粉(ごふん)を鉢に入れて空摺(からす)りしているところへ、良念さんが声をかけた。良念が自分から離れに来るとは、めずらしいことだった。
「おや、これは。何か…」
「いや、別に…」
「ま、とにかくちらかってるが座って下さい」
 良念さんは賓客があって緊張したためかどうか、まだいくらか上気しているようであった。
「ご婦人がたのお相手は疲れるでしょう」
 良念は法衣を着替えていた。
 浩司は畳を汚さないようにと、古い水張り用の仮張りの柿渋紙を何枚も重ねて敷いていた。肌ざわりはごわっとしているけれど、足で踏むとぶかぶかしずみ込み、座ぶとんもいらないくらいで、うたた寝をするにはもってこいだ。舶来羅紗の赤ゲットを買うには及ばない。
「始めましたね。邪魔じゃないですか」
「乾くまでは、待ってるだけだから」
 良念さんは何か言いたいことがあるような、言いたくないような、こんな曖昧な態度はついぞ見たことがなかった。
 浩司は鉢を膝の上にのせ手を動かしながら、さては百合子様のことかと見当をつけて、からかっては悪いと思いながらも少しつっ突いてみたくなった。
「私なんぞには縁のないことですが、ああいう深窓のご令嬢というのは、美人だかおかめだかよくわからんですね」
「あの方は聡明で美しい人です。しっかりした考えを持っているし、新しい時代を生きていける人ですよ」
 良念さんがむきになっているので、浩司もそのつもりもないのに、意地悪くなり、こういう時は往々にして話があらぬ方向へいき収給がつかなくなりがちだった。
「私にはむつかしいことはわからないが。
 良さん、ばかにご執心じゃないか」
「何を言ってるんですか」
 良念さんの白い顔が赤くなった。
 その気があってもなくても、寺の変わりばえのしない毎日では,どんな些細なことであれ何かあれば、話題としては充分過ぎた。まして若い娘が来たとなれば、すぐ忘れてしまうにしろ、いっとき浮き足立つのはいたし方のないことだった。
「私でできることなら力になるよ。良さんならどこへ出ても申し分はないし、生まれなんか気にすることはないさ。今のお大尽だってほとんどご一新以後の新興成金だし、新政府のお歴々にしたところで、昔は何をしていたかわかったもんじゃないよ。
 百合子様のお父上は、随分と領地はあるようだが、殿様商売で没落した士族も多いっていうじゃないか」
「そんなこと、私には関係ないですよ」
「いや、ただ良さんなら何も遠慮することはないし、誰にも卑屈になる必要はないと思っただけだよ。
 昔のことも、これから先のことも、思いわずらっても意味がないというところじゃないのかね。私なんかが、言わずもがなのことだったかな。
 気にさわったらあやまるからさ、おこるなよ」
「いや、別にいいんだ。
 それより、橋梁技師のダグラスさんという人がコーさんの仕事を見たいそうだ」
「かなわんなあ、異人さんかあ。
 それにこのざまだ。少しかたずけなくちゃならないね」
「そういうことは気にしない人らしいよ。それより何か土産に描いておいてほしいそうだ。橋の完成までには何年もかかるらしいから、急ぐことはないけど、コーさんの都合のいいようにして下さい」
「そう言われてもなあ」
 良念さんはすっかり落ち着きを取りもどしていた。
 ニカワが冷めたので絹枠を寝かせて、にじみ止めのドウサをぬりながら、人が来るとなればいくらかまわないとはいっても、多少の体裁は整えねばなるまいと思っていた。
 ついこの間、本家の叔父の使いが金を届けてくれたので助かった。仕事振りを見せるとなると、その前に彩色に入っていたほうがいいだろう。
 良念さんは胡粉の鉢を持って、にこにこと手を動かしていた。
「手伝うことがあったら言って下さい」
「明日、骨描きに入ります」
「じゃあ、墨を摺る時は呼んで下さいよ」
「随分うれしそうだね、何かいいことでもあったんですか」
「そ、そんなことはない」
 良念さんはそわそわ立ち上がった。

 浩司は朝早くに起きた。
 厨に行って、飯と汁だけを慌ただしくかきこんで離れにもどった。
 その間に良念さんが墨を摺っておいてくれたようだ。
 骨描(こつが)きだけは最後まで一気に描き上げないと線が死んでしまう。
 厠(かわや)もすませたし、手も清めた。
 桶にきれいな水をくんで、いよいよ身支度の仕上げに、汗止めの鉢巻きを手拭いがくいこむほどに、ぎゅうとしめた。
 生絹の下に下描きをあてがい、面相(めんそう)筆に墨を含ませて、一度大きく深呼吸してから画布に筆を降ろした。
 浩司は絹枠のまわりをあちこちいざって、描いたところを汚さないように苦心している。
 どれくらいたったものか、一番手前の牡丹の葉の最後の一枚まで骨描きが終わった。
 浩司は筆を置くのももどかしく、いきなり駆け出して厠へ急いだ。戸を閉めるのも忘れて、有田焼の朝顔に勢いよく放尿した。
 一度ぶるっと身震いしたところで初めて朝顔と金隠しが、冬場の常滑(とこなめ)から夏用の青絵にかえられているのに気づいた。今日換えたわけでもないのに、今までうっかり見過ごしていたのだ。朝顔の上を指ではじくと澄んだ音がする。
 手水鉢(ちょうずばち)の水を申し訳程度にすくって南天の葉にふりまいた。鉢巻きをはずして手をぬぐい、ついでにつるつるになった頭を一撫でして大きく伸びをし、今度は廊下をゆっくり歩いていった。
 胡粉にニカワを少し入れよくよくこねてから、団子にしてたたきつけていたら、小僧がお昼だと呼びにきた。
「浩司様は、いつ川向こうへ帰るんだ」
「秋まではここにいるよ。一度暑くなって、それからまた涼しくなったらお別れだ。
 なに、鉄の橋ができたら、いつでも会えるさ。
 そうだ、お前にこの矢立てをやろう。大事に使えよ」
「ありがとう、紙もおくれよ」
「そうだったな」
 小僧は反古(ほご)紙の束を受け取ると駆けて行った。
 下絵を描き出した頃は、ちょうど牡丹が満開だった。今はもう花の時期は終わってしまったが、芍薬が咲き出したから、どちらもまあ似たようなものだ。描きなれている花だし粉本(ふんぽん)もいろいろそろっているから心配はない。
 厨に入るとにぎり飯が用意してあり、浩司は上がり口に腰かけてほおばった。
「座敷へ運びましょうに」
「絵を汚すとまずいから、ここでいいよ」
 茶をすすっているところへ、良念さんが入ってきた。
「はかどってますか」
「骨描きがあがったところです。今日中に下塗りをしてしまいますよ」
「手伝うことはないですか」
「いや、今のところは、炭の用意さえしてもらえたら」
 浩司は飯粒でねばつく指をなめた。

 胡粉団子、黄土を皿にとって、指の先で溶きおろした。浩司の手は、爪の間に絵の具といわず墨といわずしみついて真っ黒になっていた。
 絹本は発色が紙と違いどうしても画面が暗くなりがちだし、長い間には更に生絹のニカワ質が黄変するし、厚塗りもできないから、やはりむつかしい。
 仕事に入っている時は忘れていたのだが、ふと我に返ると、尻だの首筋だのそこいらじゅうが痛み、立ち上がって腕を振りまわしたりして、また座り込む。
 浩司はのどがかわくと、鉄瓶に直接口をつけてごくごく飲んだ。
 鉄瓶はずっしり重く、口からこぼれて下をぬらしてしまうのがおちだったが、気ばかりせいて茶碗を取る気にはなれないのだった。
 絵の具の発色をよくするための下塗りなのだが、何度も薄くいろいろな色を塗り重ねていくと思わぬところで、中の一色が立ち上がって輝き、その瞬間鳥肌が立つような興奮をおぼえるが、何をどう重ねていけばいいかということになると、まだしかとはつかみかね手探りを続ける浩司だった。
 だいぶ日が伸びてきたとはいえ、そろそろ障子越しの日射しは頼りなくなってきた。
 真夏でも細かい仕事になると障子を閉めきっておかなければならないのはつらい。
 絵の具箱を出して、ふたをはずした。小さく仕切られた枠の中に岩絵の具の壷が一つづつ納まっている。
 絵の具箱と擂り鉢を文机(ふづくえ)の上に準備して、使い終わったところをかたずけた。
 絵描きは全くの無頼者か、えらく几帳面かどちらかの両極端で、浩司は一仕事終えるごとにいちいちきれいにしないと次に進めない口だった。
 大和絵の師匠は、まわりがきれいになっているうちは一人前じゃないと言っていたが人それぞれでいいのだ。
 師匠はあんなことを言っているが、ちらかし放題で飲んだくれているから、ろくな仕事が来ないのだと、浩司は内心思う。
 誰だって、あんなごみためみたいな所へ上等の仕事を持っていくのは考える。
 寺へ来て塵一つない玄関に立った時は、正直ほっとした。御一新以来メリケンさんの肝いりで、万事衛生、清潔第一になったのはいい傾向だ。

 井戸の前に立って浩司は滑車の綱をたぐりたぐり、師匠は今ごろどうしているかなとちらと考えたりもするが、今の生活に夢中で、すぐに忘れてしまう。
 歩いて小一時間もかからぬ所にあるものを、つい面倒になり、とんと御無沙汰していた。
 絵の技法を一から手ほどきしてくれた師匠に感謝はしているものの、目先の興味に引きずられうかうか日を過ごすうちに、思い出すことも少なになり、果てはいい師匠についたからといって必ずものになるわけでもないのだから、これは己の才覚もあるなどと自惚れているのだから現金なものだった。
 師匠は頑固で偏屈で新奇なものを受け付けなかった。舶来物や新しい道具がいろいろ出まわっていて、叔父の出してくれる金でほしい物は手にいれていたが、師匠の前では使えないので、ずっと宝の持ち腐れであった。寺へ来てからは誰はばかることなく、いろいろ試してみるのだった。
 本家の当主の叔父は浩司が絵師になりたいと言った時、一族全員が大反対の中、唯一人賛成してくれた人だった。賛成するということは金を出すということなので、全員反対だったわけだ。
 叔父は、いいじゃないか悪いことをするわけでなし、若いもんは家で遊んでいるより外へ出たほうがいい、と金を出してくれたが、まわりの者は皆、絵描きなんぞ道楽者のすることだと思っていることに変わりはない。
 それは浩司も十分承知のことだったが、町で珍しい物を見つけるとたまらなくなって、いけないと思いながらも、また叔父に金の無心をするのだった。

 井戸端にしゃがみこんで、筆と先頃手に入れたホウロウ引きの皿を洗った。外側が目の覚めるような青色で内は白くなっているところは絵の具皿にはちょうどいい。鉄製で割れないのはありがたいが、ガラス質の釉薬(ゆうやく)を焼きつけてあって、やはり粗末にはあつかえない。七宝焼きと同じようなものだそうで、それを鍋や什器(じゅうき)に使うなんぞ、西洋人は豪勢なものだ。舶来物を買い集めては、小僧相手に自慢してもしようがないのだが、今度また西洋のパステルというものを買おうと思っている。紙にそのまま描いて、何と色が付くという代物だ。小下絵用にもってこいだ。
 従兄弟の圭介のように、女に入れ揚げて放蕩の揚げ句全部消えてなくなるよりはましだと、言い訳じみて考えているが、一族にとっては圭介も浩司も厄介者に変わりはなかった。
 圭介は浩司を話のわかるいい仲間と思っているものらしく、以前はよく色街にさそいにきた。浩司は、誘われるから断り切れないのでつきあうが、自分としてはそんな所へ足を向ける気はないとそのつもりでいるが、一度として誘いを断ったこともない。
 しかし、さすが寺に入ってからは、圭介の足も遠のいていた。
 浩司にしても、寺に来てからは水墨画の修業ばかりか、書に茶の湯、生け花、篆刻(てんこく)果ては上流階級の方々とのご交際と、縁がないと思っていた高尚な趣味に手を染めることとなり、女郎買いどころではなかった。
 おまけに、新政策とやらで、色街と市中で隔てる道が拡幅されて八間にもなり、道路を渡ればそのまま女を買いにいくと一目で知れ、大通りを横ぎるのは勇気のいることだった。
 と言って、修業にはげみ、禁欲生活を送っているというのでも、もちろんない。
 造り酒屋の出戻りが寺の裏手の借家に住んでいるのと言葉を交わす仲となり、それから時々、雨の夜などに通うこととなって久しい。
 趣味のいい貸家が何棟か続いて,後家さんだのお妾さんだのが静かに住まわっていた。
 細い路地はめったに人通りもなく、家人が外に出ているのさえ一度も見たことがないのに、いつでも道はきれいに掃き清められて枯葉一枚落ちていない。
 浩司は人目につかないように、それが本当に賢明な方法か疑わしいのだが、あちこちの生け垣をくぐって抜ける。
 一度良念さんの姿をちらと見かけた時は、こんな所に用事があるわけはなし、まさかと思って驚いたが、年相応の知恵はあったのだと思って安心した。
 もちろん、姿を見かけたことは良念さんには言わない。
 明日はいよいよ着彩だ。

 ニカワは新しいほうがいい。夏場はどうしてもニカワのききが悪くなる。
 浩司は鍋をかきまわし、火の前にかがんでニカワが溶けていくのを見ていた。
 額の汗が沓脱(くつぬぎ)石の上にぽたぽた落ちて、黒くしみていった。
 岩絵の具は水に溶けないので一度に濃い色はできないから、着彩は気長に薄い色を何度も塗り重ねていく根気のいる仕事だった。
 ことに絵絹には厚塗りはできず、失敗は許されなかった。
 せっかちな浩司は、水墨画を始めてから一気に描き上げる山水のほうが案外向いているのかななどと思ううちに、寺が居心地いいせいもあって、もう三年もたってしまった。
 岩絵の具の緑青(ろくしょう)の鉢を空擦りして、指先に取ってみた。細かくなるほどに白味を増すので、一度として同じ色にならない。かと言って細かくしさえすればいいというわけでもなく、浩司は今、緑青と白緑(びゃくろく)の中間程の色あいをほしいと思っている。
 小皿に取ったニカワに緑青をねり込んでいくと、じわじわ指先が生暖かく緑色に染まった。

 老師が箸を置き合掌すると同時に、浩司も良念も食べ終わり、師が立ち去るのを見送る。
 老人は食が細いので、浩司は寺にきてから食べるのが速くなった。
 源さんは用がないかぎりめったに畳の部屋には入らないから、自分で使った食器は布巾でぬぐって膳の上に伏せてそろえ、下の銘々膳を置く棚にそのまましまっておく。
 小僧は下の板の間でまだ食べていた。
 良念さんがランプの用意をする手を止めた。
「仕事は進んでますか」
「八分通りというところかな」
「ダグラスさんがいよいよ見えますよ」
「一応恥ずかしくないように準備はしましたが、描いているところを人にみられるのはいやだな」
「いつも通りでいいですよ。気さくな人らしいから」
「そうは言ってもなあ」
 イガ栗のようになった頭をなでると、手のひらにチクチクした。

 表がいやに騒がしい。
 生け垣の間から、下の道を帽子をかぶった異人さんと袴姿の百合子様が並んで自転車をこいでやってくるのがのぞけた。続いて人力車が見え、その後から近隣の子供達が大勢走ってついてくるという呆れ果てた光景だ。
 浩司は庭におり一行を出迎えた。
 二人の車夫が自転車をかかえて、先頭で石段を上がってくる中で、ダグラスさんは六尺以上も上背があるから、皆の頭の上から顔を突き出して、遠くからでも一目でわかる。
 子供らは自転車を取り囲み、さわろうとする者がいると、車夫がぴしゃと手をうった。
 ダグラスさんの足は蚊トンボのように細い。
 どこから出てくるのかわからない、よく通る声で何か言っているが、もちろんさっぱりわからない。
 百合子様には、わかっているらしい。
「これは、ダンロップ先生の空気入りタイヤ付きの安全自転車ですのよ」
「しかし、よくこんなものにお乗りになれますね」
「馬より簡単ですことよ」
 自転車はピカピカに磨き上げられて、銀色に輝いている。
 源さんが子供達を追い払って、門をしめた。

 浩司は良念さんが一行を池のまわりやら案内している間に、離れにもどって準備に怠りないかもう一度確めた。
 注文されている絵はまだまだずっと先にならないとできないが、今日の土産は用意してある。
 筆を持ったがどうにも落ち着かず、とても描くどころではないし、また筆を置き、今日のために求めた毛氈(もうせん)もかえって暑苦しくやめればよかったと思うがもう遅い。
 とにかく、描くかっこうだけでもしていないと、もうすぐこちらへやってくる。
 牡丹の花に色が入らないと絵にならないからここは先にやっておいたが、絵の具皿も派手なほうが見栄えがよかろうと、辰砂(しんしゃ)や紫金 (しきん)やら並べた。
 最後の花の隈取りにかかったところへ、ぞろぞろ一行がやってきた。
 ダグラスさんはもちろん正座はできない。
 長い脚をもてあましぎみに前に投げ出して、百合子様とひそひそ話している。
「顔料を溶かしているものは何かとおたずねよ」
 百合子様が土鍋のほうを向いた。
「ニカワです。ニカワで岩絵の具を溶かすのです。溶かすといっても、ほんとうに溶けるわけではありませんが」
 浩司はどこまで説明すればいいのかわからない。初対面の毛唐人に何を話したらいいのかも見当がつかないことだったので、土産に用意した墨とガラスの小瓶に詰めた絵の具一式を木箱に入れたのを差し出した。
「これをどうぞ。
 この緑青という絵の具は孔雀石を砕いたもので何百年たっても退色しません」
 ダグラスさんは大きくうなずいて、テンペラ、テンペラと言っている。
「西洋でも孔雀石は使うそうですわ。マラカイト・グリーンというものですのよ。
 大和絵は、西洋のテンペラという技法と同じらしいですわ。ニカワや卵を使うそうですもの」
「卵ですか」
 浩司は、卵かあと驚きながら、箱にふたをした。上から小下絵の中で見栄えのするものに手を入れた紙をかけた。
 ダグラスさんは変な帽子とガラス箱を取り出した。
「ダグラスさんも絵をお描きになるの。
 油絵といって、顔料をけし油で溶いた絵の具だそうよ。この群青はラピス・ラズリといって孔雀石と同じように宝石になるものだわ。昔は金より高価だったらしいことよ。瑠璃(るり)とか青金石のことね。
 このお帽子は、トウピー・ヘルメットという日除け帽、こちらは羅紗のボウラー・ハットというものよ」
 浩司は絵師にあるまじきことながら、群青の顔料よりも帽子に興味がわいて、トウピー・ヘルメットというものを手に取った。籐(とう)で骨組を作り上を白い麻布でおおって丼型にしてある。菅(すげ)笠のようにかぶると中空になるのが暑い時には具合がよさそうだ。革のあご紐に真鍮の止め具が付いていてピカピカ輝っている。
 珍しい物となると目のない浩司は知らぬ間に、顔がゆるんでいたものらしく、ダグラスさんも満足そうに引き上げていった。
 浩司は、西洋も日本も絵にそれほどの違いはないと知って安心したし、何だか自信が湧いてきた。
 しかし、卵や油で絵が描けるとは驚きだ。
 気ばかりせいていても今日はもう仕事にならないから、気分が落ち着くまでダグラスさんの土産にする絵のことでも考えよう。
 やはり、異人さんだから美人画がいいだろう。地に金箔を張るのもいい。箔あかしの手間は大変なものだが、小さい絵ならなんとかなるだろう。
 ダグラスさんはスコットランドという所の出身で、そこはイングランドとはちがうのだそうだが、どこがどう違うのか浩司にはわからない。
 あれこれ考えているうちに浩司は、山鳥の目にも金箔を入れよう、と思いついた。絹本(けんぽん)だから裏から押したほうが、上品に仕上がるだろう。もうほとんど完成しているが、何かもの足りなさ感じていた。
 そうか、目だ。すると現金なもので、急に仕事に没頭しだすのだった。
 最後の仕上げだった。
 絹本の裏にニカワを引き、山鳥の目に金箔を入れる。ほんの小さな箔片が入っただけで、目の鋭さが増した。
 これで経師屋に出して掛け物に仕立ててもらうだけだ。
 やれやれ、と口に出して腰を上げる。
 大した腕もないのに、気まぐれなところだけは一人前の浩司だった。

 庭をぶらついていたら、源さんがやってきた。
「異人さんだけ、先にお帰りになりました。ご婦人がたは、良念さまがお相手をしてますから、私は用無しです」
「なるほどね」
 浩司はにやりとして、源さんに目くばせした。。
 池の向こうで良念さんと百合子様がつれ立って、生ける花を手(た)折っているようなので、二人に気づかれないよう物陰からのぞいて、美人画の下絵の為に筆を動かしていた。植え込みの木の葉が、頭や顔に当たってチクチクいたい。それを手ではらったりしたのだろうか、どういうわけか、隠れようと思うと必ず見つかる。
 小夜さんに会った時もそうだった。
 造り酒屋の出戻りの小夜を物陰からのぞき見て、似姿を写していたのだが、身を乗り出し過ぎて、婆やに見とがめられたものだった。
 小夜は大様(おおよう)な女で屈託がなく、こまめな婆やがあれこれ浩司の身辺を聞き出すのを、聞いているのかいないのか、ただおっとりとほほ笑んでいる。
 仕事に疲れた夕暮れ時に散歩がてら歩きまわり、帰りがけに小夜の家に寄ることが多くなり、茶をふるまわれて世間ばなしにうちとけて、最初は縁先に腰かけるだけだったものが、今では奥の座敷にまで入りこんでいる。
 こういう時、絵師というのは便利なものだ。写生帳を持っていれば、傍目にもかっこうがつくし、あがりこんでいてもいくらでも言い訳が立つ。
 だから、小夜の似姿がずい分たまってしまったのだが、今でも浩司は小夜が何を考えているのかよくわからない。浩司が丸坊主になった時も気がつかなかったくらいだ。
 いちいち身の上話をきき出すわけにもいかないから詳しいいきさつは知らないが、考えることをやめたのかもしれない。
 何をするでもなくただ生きているだけでも、そう悪いことではないのかもしれなかった。

 今日は本当に人のじゃまをする気はないのだし、見つからないほうがよかったのだが、写しに夢中になって、ついふらふら出ていってしまったらしい。
 良念さんのほうから、こちらへ近づいてきた。
「コーさん、何をしてなさる」
「いや、ちょっと…。
 ダグラスさんのほうの絵にかかろうと思って」
「掛け物は上がったんですか」
「ええ、なんとか」
 画帳の百合子様の絵を見て、良念はいく分不快感のまじった複雑な表情をした。
「あら、私を描いて下さるの、うれしいわ」
「自転車はどうなさいました」
「使いの者に乗って帰らせましたわ。乳母が、お願いだからやめてと申しますのよ。
 便利なものなのに、古いんですわ」
 百合子様は乳母の口調をまねて、おどけてみせた。
 まったく、このお方もどういう人なのだろう。若い娘の考えることは、さっぱりわからない。
 百合子様は袴は取ったようで、水浅葱の地に矢車菊がくっきり浮き出した帯付け姿だった。老師に挨拶したのだろう。
 「ダグラスさんにお礼を言って下さい。私はこれで」
 浩司は良念さんの険しい目を見て、早々に逃げ出した。>{<
 多分、良念さんは百合子様にひかれているのだろうが、どうせそいうことはなるようにしかならないのだから、せんさくしても始まらない。
 浩司は面倒臭くなって、仕事に没頭した。

 美濃紙ににじみ止めのドウサを引き、水張りして仮張りをすませていた。
 ダグラスさんにもらった青金石の群青を着物の彩色に使ってみよう。百合子様が着ていたような色が出せるだろうか。鉢に移して空摺りしてみると、その昔は金より高かったと聞けば、何か並みの群青とは違うような気がしてきた。
 良念さんがランプを持ってやってきて、力なく座りこんだ。
「どうしたんです。溜息なんかついて。
 今更、恋の病いでもありますまいに」
「いや、別に…」
 良念さんは相変らず元気がなく、からかうのはよくなかったと浩司は言葉を選んでしゃべろうとした。と同時に良念も何かいい出そうとして、二人共一瞬つまったが、浩司が黙っていると、良念がぽつりと言った。
「アメリカへ行くのだそうです」
 浩司は、えっ誰が、と聞こうとしたが、それは百合子様にきまっていた。
 良念さんは美人画の下絵をぼんやり手に取っていたが、やがて無言で立ち去った。
 浩司は、慰めたほうがいいのか、それともふれないほうがいいのかわからなかったから、良念がすぐ出ていってほっとして、結局あまりふれないほうがいいのだと、自分で納得した。
 下絵の顔は百合子様のものではなく、異人さん好みに浮世絵風の、どちらかといえば小夜さん似だった。
 百合子様がアメリカへ行ってしまうのなら、良念さんに似姿を残していこう。
 浩司に出きることといったら、それくらいしかなかった。

 美人画はたいして大きくもないので、箔あかし以外は造作もない。
 せっかく金箔を押すのだからと、気張って背景に地紋を入れることにした。骨描きと下塗りは終わっている。
 地紋の型を、ていねいに写し取った。同じ文様のくり返しなので目が変になりそうだった。
 その墨の線の上を胡粉をといた筆でなぞる。黒い線が消え白一色に変わっていった。胡粉がかわいたら、本紙に顔をくっつけて、角度を変えて胡粉の線を確かめ、またその上を何度も何度もくり返しなぞって、徐々に線を盛り上げる。
 浮き上がった地紋のかすかな影に浩司は満足した。
 いよいよ箔あかしだ。
 風が入らないように障子を全部閉めきった。
 箔を押す地紋の上にニカワを引いて、いよいよ勝負だった。
 箔が入っている小箱をうやうやしく取り出し、静かにふたを開けた。
 金箔の上にかぶっている薄紙を取り、椿油のしみたバレンで薄紙をこすって、油をすり込んだのを金箔にもどし、その上から竹バサミで一撫でしたら、箔がすっと気持ちよく紙に吸いついてくる。指で直接さわると手にくっついて、ぐちゃぐちゃにからんでしまう。
 あかした箔を本紙の角に注意深く押して、はじめて大きく息をついた。がこれで終わったわけではない。薄紙をはずす仕事が残っている。恐る恐る紙をめくった下から、金色の地紋が浮き上がって輝いた。
 金屏風などの大物になると職人に出すしかないが、これくらいのことは自分でやらねばなるまい。何度やっても気骨の折れることではあったが、浩司にだってやってやれないことではなかった。
 余分な箔を落として、ようやく障子を開け放つと、庭の植え込みの間から涼しい風が流れてきて、生き返る心地だ。
 茶碗に水が入っていたので、何に使った水か忘れてしまったが、かまわずにごくごくと飲んだ。
 肘枕で縁側に寝ころんで、小夜さんの家の方角に目を移した。午後の日射しが竹藪のてっぺんだけを頼りなく照らしている。
 ブーンと羽音がして藪蚊が一匹、ほっぺたにとまったのを、ピシャリとたたいた。手のひらに押しつぶされた蚊がついている。腕をふって虫を落としても、手のひらには蚊の形がそのまま黒く残った。多分ほおにもくっきりと同じ型がついている。
 老師は殺生はいけないと言うが、年寄りは蚊にさされないから、そんなことを言ってられるのだ。師だとて、最初から悟り切っていたわけではあるまい。
 小夜さんに、寺を出ると言ったら、そうなの淋しくなるわね、ともう別れるのは当然の成り行きということになっていた。しつこくつきまとわれても困るが、こう何でもあっさりと通ってしまうのも拍子抜けだった。それは身勝手というものだが、何だか淋しい。
 小夜は全てをすんなり受け入れて生きている。不平不満を言ったことはないし、希望も願いもきいたことがない。
 どうせおつりで生きている身だから、と小夜はよく言っていた。
 浩司は小夜に、一文字に珊瑚が並んだ銀の飾り櫛を買った。小間物問屋にはガラス細工のや、機関車だのアイロンだのミシンだのがぶら下がっているかんざしやら、珍しい物がいろいろ出ていたが、小娘ではあるまいし、三十路を過ぎた小夜さんには似合わない。
 小夜は上半身はだけた姿で、婆やに髪をすいてもらっていた。縁先から声をかけると、にっこりふり返って、血管が青白く透き通った乳房が冬瓜のようにゆれ、開け放った座敷を涼しい風が通っていく。
 西洋の婦人は、人前で赤ん坊に乳をふくませるようなことはめったにしないそうで、胸を見せるほうが恥ずかしいとされていると聞くが、一方でおびただしい数の裸体画が堂々と広間に飾られているとなると、浩司には西洋人の考えがどういうものなのかさっぱりわからなかった。
 ただ、これから先、異人さんの影響で女達が胸を隠すようになるのかと思うと、ちょっと残念だ。
 小夜は胸をはだけていても、身づくろいをする時は衝い立の陰に入る。その恥じらいと奥ゆかしさが、しまりのない崩れかけた体と日々の暮しを、辛うじて支えていた。小夜にとっては、乳房は隠すべきものでは特にないが、身支度の途中の不細工は恥ずべきことなのだ。
 浩司は小夜に、私のような若造では何の役にも立てなくて、と言うのが口ぐせだった。それは、最初から役に立とうという気がないのと同じことだった。
 小夜のやわらかい体は、どこまでもずぶずぶとうずもれてしまう底なし沼のように、とりとめもなく広がり、浩司はいつもどこかで引き返したいと逃げ道をさがしておいたのかもしれなかった。
 不必要に、まだ半人前だから、修業の身だから、とくり返す自分に気づいている。
 浩司は、これでいいんだ、これでいいんだと喉の奥でつぶやいていた。
 村へ帰ると決まると、気がせいてどんどん仕事をかたづけた。
 すべきことは、さっさとすませておくほうが落ち着ける。が、それだけ別れは早く訪れる。
 美人画はすでにでき上がっていたし、あとはもう、良念さんに残していく絵だけだった。
 ダグラスさんのラピス・ラズリは明るく澄んでしかも深みがあると感じるのは、金より高価だったと聞かされたせいばかりではあるまい。
 この群青は百合子様の着物の矢車草にぴったりだ。
 紙にすうっと、透明な水色が吸い込まれていく。
 良念さんの為に描いた小さな肖像に、金箔ののこりで砂子をまいた。砂子まき用の金網の上から筆でこすりつけるほどに、金箔はさらさらとくずれて砂子となり、大首絵のまわりを色どった。

 いよいよ村へ帰る日が近い。
 蝉の声も頼りなく、夕暮れも早くなった。
 盆の休みまでには帰りたいものだと思っている。
 浩司の在所では養蚕が盛んで、八月の月中は夏蚕(なつご)が上がる時期に当たり、盆休みはいつの頃からか十日遅れとなっていた。
 夏蚕が終わり秋の稲刈りまでの間が、束の間の小休止となったが、せっかく入った夏蚕の金を、相場を張ったり博打につぎ込んだりと、一夜にして無一文になる者も少なくなかった。
 それに比べたら、自分が使う金などたかが知れていると、浩司は誰にとなく言い訳がましく思うのだった。
 源さんには、羽織を置いていこう。いらないものは、全部小僧にくれてやることにして、荷造りにかかった。
 叔父の使いが明日、荷を取りにやってくる。新築の成った本家である叔父の家に、しばらく留まることになっていた。
 田舎のこととて、親戚知友をまわり歩いて仕事をさせてもらうくらいしかほかに、注文主など現れるはずもない。
 茶箱や柳行李(こうり)をすみに積み上げたら、部屋の中は急にがらんとしてしまった。柿渋紙を敷いていた所だけ、まだ畳が青々として新しいままだ。
 何もなくなった畳の上に、一人でぽつんと座っていた。
 人の近づく気配がして、それは足音で良念さんだとわかる。
「いよいよですね」
「ああ、良念さん、渡したいものがあります。
 受け取って下さい」
「私も住職から預ったものが…」
 良念さんは紫色の帛紗を出した。
 中には四角い石の落款(らっかん)の印があり、浩洋と刻んであった。
「水墨には、その落款を使うようにとのことです」
「もったいないことです」
 浩司は篆刻も試みたが、せっかちな性分のせいかうまくいかず、すぐにあきらめた。
 しかし、浩洋とは、漠としてとりとめがないし、第一簡単すぎる。もっと、故事にでもちなんだ凝った雅号がほしかったが、あまりにあっさりしているものだから、少し老師をうらめしく思っている。
「私も大したものではありませんが」
 と、良念さんは再び懐から紙包みを取り出した。
「これは中国の松煙墨です。このごろは松煙は不人気でほとんど用いられませんが、なかなか捨てがたい味があります。青くてきれいな色ですよ」
 浩司は墨を納めたのとかわりに、板紙にはさんだ百合子様の肖像に紐をかけたのを出した。
 良念さんは紐をといて中をちょっとのぞいた途端、すぐぴしゃりと閉じて、そのまま下を向いてしまった。
「私にはそれくらいのことしかできませんから。気に入らないでしょうが、受け取って下さい」
 しばらくしてから、良念さんは顔を上げ、ありがとう、とぽつんと言った。
「なに、鉄の橋ができたらまたきますよ。これっきりというわけじゃなし。
 また会えますよ。
 また、すぐに会えますよ」
 良念さんはずっと無言で、何か別のことを考えているふうな目をして、何度もうなずいていた。

 庫裏に行って、源さんに声をかけた。
「ずい分世話になったな」
 風呂敷に包んだ羽織を、源さんの前に置いた。
「着古しだけど、悪い物じゃないから、何かの役には立つだろう」
 源さんは鉢巻にしていた手拭いをはずして頭を下げた。
「私も餞別と言っては何だが…年寄りは能がなくってねえ」と言って、晒(さら)しを匹(ひき)で、手製のこよりを結んで出した。
「ありがとう、橋ができたらまたくるよ」
「それまで生きていられるかどうか」
 源さんはめずらしく弱気になっている。
 小僧が裏口からやってきて、袂(たもと)からおずおずと小石を出した。浩司が手に取ると、そのままくるりと向きを変えて逃げていってしまった。
 細長い小石の底を平らに仕立てて、文鎮にちょうどいい。道端で拾った石を気長にすって底をつけたのだろう。誰に教わったわけでもないのに、どれくらいの時間がかかったものか、浩司は不覚にも目頭が熱くなった。
 源さんも手拭いで顔をおおった。
「年をとると涙もろくなっていけないねえ」
 てれ笑いを残して去っていった。

 荷は先に運んであったので、浩司は手荷物だけを風呂敷にくるんで背中にしょい込んだ。
 老師とはきのうのうちに別れの挨拶をすませていた。
 良念さんに源さん、小僧と居合わせた女衆が見送りに出てきた。
 浩司は小夜さんの家のある竹藪のほうを、ふり仰いだ。
「長々お世話に成りました。
 皆様方、いく久しゅう…」
 山門の内と外に立って、双方共、深々と頭を下げた。

第二部につづく

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