風姿訛伝
または凡庸な田舎絵師の肖像  第二部の1

古井みち子 作 (無断転載を禁じます) 

 浩司は川沿いの道を急いだ。日暮れ前には村へ着きたい。
 思いの外、渡し場までに時間を食ってしまった。
 裁っ着けに日除けヘルメットをかぶった姿はさぞ異様なことであったろう。行きかう人ごとに、いちいち呼び止められて被り物のことをたずねられた。中には、ゆずってくれと言い出す者まであって、断るのに往生した。
 八年前、村を離れる時にはまだ木の橋が流されずにあり、市中まで歩いて半里そこそこであった。それが、橋一本なくなってしまうと、川の向こうとこちらは、たちまち別世界と化す。村へ帰るのは一日がかりとなった。
 渡し船というものにはじめて乗ったが、何ほどのこともない。
 両岸から太い綱を張った間を行き来するだけのものだった。これでは船頭の櫂さばきなど期待すべくもないが、船が流される心配はなく、浩司とて、こんな所で危ない目にあいたくはないし、船頭もこれしきの賃仕事でいちいち命は賭けられまい。
 船を降りて、土手の草の上に腰をおろした。
 船頭が退屈そうに櫂をくるのを遠くに見下ろしながら、にぎり飯をほおばった。

 村に入り、かっては見なれたはずの風景を一つ一つ確かめながら歩いていくと、半歩遅れて懐かしさがこみ上げてきた。
 懐かしい、といって誰が待っていてくれるわけでもないが、とにかく家に寄る。
 浩司の家は両親共すでになく、一回りも上の兄が跡を取っていた。
 留守の間に、家の中がどういうふうに変わっているかわからなかったし、幼い子も多いとなれば、そう長居もできない。
「ただいま帰りました」
「まあまあ、ご苦労さまでした」
 兄嫁が出迎えた。浩司が村を出たときには、まだ面ざしに新妻らしい初々しさが辛うじて残っていたが、しばらく見ない間に、随分ふけ込んだ。
 井戸端で足をすすいでから、衣服を改める。
「すっかり立派になられて…。
 荷物はもう本家に行っています。夫も多分寄っているでしょう」
「じゃあ、私もさっそくまいります」
「ゆっくりしてからでいいじゃありませんか。
 お茶ぐらい上がってからでも…」
 と言いながら、茶のしたくをする様子もなく、兄一家の住まう田舎家に、浩司のいる場所はもうなかった。
 本家までの道筋は、八年前と少しの変わりもなかった。
 門をくぐり、新しく普請のなった母屋を見上げた。銀色の甍(いらか)がまぶしく、純白の漆喰が夕日に染まって、深い軒の奥はすでに暗い。
 見知らぬ使用人たちが頭を下げて、浩司の前を行き来して、むこうの機屋(はたや)の前では織子達が立ち話にかしましい。
「浩司様じゃありませんか」
「誰だったかな、私ははじめてと思うが…」
「いやですよ、シゲですよ…」
 と言ってカラカラと笑った。
「えっ、あのお茂か」
 この家に奉公に入ったばかりの頃、ちょっと見かけただけだったが、あの時は女工に行って体をこわして帰ってきたとかで、大柄ではあったが、青白い気弱そうな顔だった。
 それが、えらい変わりようだった。
 すっかり日焼けして、腕は浩司よりはるかに太い。
 村は変わりないと思っていたが、人はやはり変わるのだった。
 庭を見わたせば、育ちの遅い百日紅(さるすべり)の木も随分大きくなって、今を盛りと咲き誇っている。
「おお、コーさんか。何年ぶりかのお」
 広縁から本家の御当主が手招きしていた。
 伯父は白いものが目立つようになった髪を、相変らずちょんまげに結っている。いくら田舎とはいえ、まげを結っている男は村でもたった一人になっていた。
 散切り頭は手入れが簡単なので、貧乏人ほど早かったようだ。
 浩司の頭はだいぶかっこうがついてきた。
「お久しぶりでございます。修業中は何から何まで、すっかりお世話いただきまして……」
「挨拶はいいから。ささ、上がりなさい」
 御当主が上座にすわるのを待って、浩司は座敷に上がり、寺の老師の手になる北宗(ほくしゅう)画を掛け物に仕立てた一幅を差し出した。
 新しい家は何か落ち着かない。
「すっかり垢ぬけたのお」
「いやあ、とうとう切りましたよ」
 浩司は頭をかいた。
「わしはもう切るのも面倒だから、死ぬまでこのままだ」
 ご免下さいませ、と声がかかり障子があいた。女が茶を運んできたので、話をやめておじぎをし、そのまま下を向いたままでいると、青畳のにおいが快ちいい。
「るいだよ」
「えっ、おるいちゃんですか。すっかりきれいになって、誰だかわかりませんでしたよ」
 るいは恥ずかしそうに桃割れに結った頭を傾けた。末っ子でトメという名にするところを、いくらしまいでもそのままトメではあまりに能がなかろうと、寺の住職が考えた名だと聞いていた。もっとも世間では女の子の名など親でもそう考えるわけではなく、ウシだのクマだのイヌだのざらだった。
 八年前、るいはまだビービー泣いてばかりいる子供だった。
「来年は十六になるから、どこぞへ片づけなければいかんのじゃ。年とってからの子はだめだのお、つい甘やかしてしまって…。
おまけに片親だから不憫になって」
 浩司の兄が庭先から、立ったままで御当主に会釈した。
「そんなところにいないで上がりなさい」
「いえ、ここで結構です」
 親類縁者でも衣服を改めなければ、本家の座敷には上がれなかった。
 浩司は八年ぶりに見る年のはなれた兄が、何だかひどくみすぼらしく思えた。

 浩司の荷物は離れ座敷に運んであった。
「ここでは申し訳ない。私は奉公人といっしょのほうが気が楽で…」
「いやいや、コーさんは今や立派な絵描きさんだ。
 それに、家の中で男はわし一人だから、コーさんがいてくれると助かる」
 本家の跡取り息子は、学校の寄宿舎とやらに入っていて家にはいなかった。
「気のすむように使って下さいよ。
 わしは無粋な田舎者だから、むつかしいことはわからんが、御城下のお上人様の弟子になれただけでも大したもんだ。
 いろいろ言う者もおるだろうが、なに、気にすることはない。わしは自慢に思っている。
 家の中のことは茂に聞いてくれ」
「ありがとうございます」
 離れはかって、先代が隠居所として使っていたもので、厠もついて便利にできている。
 新築の母屋より気は楽だったが、それでも絵の具で汚したりしたら何を言われるかわかったもんじゃない。
 本家筋よりも、さきに会った自分の兄のほうこそが問題だった。元々陰険な上に、年を重ねて更に卑屈を増したと感じる浩司だった。
 家の為、両親の為、兄弟の為に犠牲になっているというのが兄の口癖だ。
 自分の思い通りにしたことなど一度もない。損だ、損だと、酒を飲んではくどくど愚痴をこぼし、意味のないことを何度も繰り返し言いつのった。
 兄のしたいことって何だろう。やりたいことがあればしたらいい。
 本当は、その気も力もないくせに、飲んではくだを巻く兄を、浩司は嫌っていた。
 自分一人で苦労をしょい込んでいるつもりか。
 いっそ、兄が出奔でもしてくれたらよかったのだ。差し当たり食うに困るわけではなし、後は何とでもなるものだ。
 浩司が絵描きになりたいと言い出した時、一番強固に反対したのは、ほかならぬ兄だった。兄の家は使用人までが、陰気臭い。

 荷物をといて柿渋紙を畳の上に敷いた。
 床の間に、十分すぎるほどの美濃紙がすでに用意されている。
「手伝いましょうか」
 茂が庭から顔を出した。
「いや、一人でやるからいいよ」
「縫い物もしますよ」
 浩司は荷物の中から、源さんの餞別の晒を一反取り出し、小声で言った。
「これで下帯をこさえてくれないか」
「いいですとも」
 茂はおかしそうに、大声でカラカラ笑った。
 女も三十路近くになると図太くなるものとみえる。家の中は茂が仕切っているようだから、この女の機嫌を損ねないほうが得策だ。
 浩司は思いついて、もう一反の晒を取り出した。
「これはお前が取っておいてくれ」
「えっ、よろしいんですか。ありがたく頂戴します。
 今夜は宴会ですよ。もうすぐお風呂が沸きますから」
「その前に、墓参りに行ってくるよ」
 両親が相次いで他界してから十年になる。
 今となっては、いっそ身軽というものだったが、まともな絵一枚見てもらわぬうちに、あっけなく逝ってしまった。
 家々の角口で、子供達が盆の迎え日のワラ束を焚いている。
 無風の夕なぎの空は静止したまま、行き場を失った煙が無意味に漂っていた。
 時々、思い出したようにワラ束がはぜて、子供達は喚声をあげのけぞった。

 提灯が庭を照らし、築山の池の水面が光っている。
 客達は、皆もう帰った。
 がらんとした広間では、女衆が膳を運び出して、片付け終えようとしていた。
 今夜の宴席は浩司のためだけに設けられたわけではなかった。主な目的は遅ればせの新築祝いと、るいの縁談と諸々の話の一番最後のほんのつけたしで浩司が紹介されたに過ぎず、それは御当主が催した宴会であれば当然のことで、客とて一夜、酒と料理にありつければそれでよかったのだ。浩司に話しかける者は誰もいなかったし、たとい話しかけられたとしても浩司も返答に困ったろう。近隣の小規模自作農や小作人の男達が何を考えているのか、どんな暮らしをしているのか、ほとんどわからないし、また関心もなかった。
 浩司は縁先に腰かけて、酔いをさましていた。
 女達は時々声をかけて、若い浩司をからかった。
「なんだね、いい若いもんがだらしない」
「酒と女はからっきしだめさ」
「うそばっかり」
 茂は膳を何段にも重ねて運びながら、時々話に入って高笑いしていたが、両腕はびくともしない頼もしさだ。
 座敷がすっかり空になると、茂は着物の裾をはしょって、雑巾をかけ始めた。突き出た尻が別の生き物のように動いて、汗のしみた裾が太り肉(じし)にくいこむ。
「女衆がしまい湯を使う前に、もう一度さっぱりしてきたらどうです」
 茂が四つんばいになったまま、力んだ声でいった。
「そうするか」
 浩司は庭をぶらついて、湯殿へまわった。
 一日中歩いた疲れと、宴席の緊張と興奮で酔いはまわって来ないのに、頭が半分しびれて心地よかった。
 ぼんやりと着物を脱いで下帯に手をかけようという時、突然湯殿の板戸がガラリとあいて、ランプの明かりと湯気が溶け合った中に白い裸身がすうっと現れ、一瞬の後、ヒャーという半分息を吸いこんでしまったような、叫び声ともいえぬ叫び声と共に、板戸がピシャリとしまった。
「いやあ、すまん、すまん」
 浩司は大声で言い捨てると、着物をひっつかんで裸で湯殿を飛び出した。
 おるいちゃんが入っていたとは気がつかなかった。来る早々、大失敗だ。
 浩司は井戸端にすわって、頭から手桶の水をかぶった。

 浩司は、広間の襖絵の下絵の準備を始めていた。ここはやはり山水画しかなかろう。
 襖四枚一組で計八枚描かねばならない大仕事だった。
 水墨は描く時間はしれたものだが、やり直しはきかない。建具屋、表具屋が前後してやりくりがつかず、もうすでに襖に仕立ててあった。それにいくら夏とはいえ、新築祝いの席に、襖紙が張ってないというのも変な事だった。
 一度、筆をおろしたら、後戻りはできない。
 北側の襖は函谷関の四季あたりが無難なところだ。もう一組は芥子(かいし)園風の楼閣図でいい。函谷関も芥子園も、実際どんな所か知るはずもなかったが、粉本にあるのだから、そんな所なのだろう。
 函谷関の断崖は、風景としては中央ということになるのだろうが、端にもってきたほうがおさまりがいい。
 失敗したらおしまいだから、描きなれたものでまとめるしかなかった。函谷関など誰も見たことはないのだから、それでいい。
 下絵用の美濃紙にドウサ引きして、良念さんにもらった松煙墨をおろした。
「墨するの、手伝いましょうか」
 るいが柱にもたれて、所在なげにしている。
 そう言っていても、ふくれっ面で突っ立っているだけで、手伝う気があるようにも思えない。
「いいよ。
 それより、ゆうべは気付かなくて、すまん」
 浩司は気恥ずかしくなって、小声で早口に言った。
「いいわよ。へるもんじゃなし。
 どうせ、私なんか嫁にいくしか能がないんだから。
 女はつまらないわ」
 相変らず、ふてくされた様子のままだった。
「そんなこたあないよ。
 女だって何でもできるさ。新時代なんだから。
 アメリカだのプロシアだの一人で行く御婦人だっているんだよ。
 何なら、俺の弟子になって、絵描きにでもなるかい」
「私は不器用で何にもできないわ。
 お針も機織りも全部だめ。絵なんか描けっこないわ。
 ああ、つまらない」
「そのうち、いい婿さんにめぐりあえるさ」
「隣村の村長さんとこの次男坊との縁談が進んでいるらしいけど、圭介さんの遊び仲間だっていうから、ロクな男じゃないわね」
 近在の若い衆はたいてい従兄弟の圭介と一緒に遊んでいて、浩司もその一人に違いなかったから、そう言われると返す言葉もなかった。
「コーちゃんのお嫁さんにしてくれない」
 いきなり言われて、浩司はどぎまぎしていた。大した意味があるとも思えないが、若い娘の考えていることは、まったくわからなかった。
「お、俺はまだそんな甲斐性ないから。
 男は身を固めれば、落ち着くもんだよ」
「そうかしら、みんな甲斐性なしの道楽者ばっかりだわ。
 あら、コーちゃんはちがうわよ。コーちゃんは立派な絵描きさんだもの」
 浩司はちょっと照れ臭かった。
「心配はないよ。根っからの悪人なんて、そういるもんじゃないし、みんないい奴だ。
 それに嫁に行ったって、いやだったら帰ってくればいいじゃないか」
「それもそうね。でも、つまらないは。
 コーちゃんのお嫁さんじゃだめかしらね」
「いとこ同士じゃないか」
「あら、そんなのいくらでもあるわよ
 駆け落ちでもしようかしら」
「おいおい、物騒なこと言うなよ。相手はいるのかい」
「そんなもの、さがせばいいのよ」
 るいは、つまらない、つまらないと言いながら立ち去った。
 まったく何を考えているのか、るいと無駄話をしている間に、ちょうどいい具合に紙が乾いていた。
 筆を硯の海に沈めて引き上げると、先からぽたりと雫になって落ちて、ゆるやかな波紋が広がった。
 松煙墨をするためにおろした新しい硯はなじみが悪かったが、青光りする墨の色はよくわかる。
 下絵なのだから緊張することはないと、自分に言い聞かせて、えいとばかりに筆をおろした。

 下絵を全部描いてから本紙に入ろうか、北側だけ先に仕上げてみようか、思案していた。
 結局、北側の函谷関を先に襖に描き上げてしまうことに決めた。
 下絵はまあ、こんなところだろう。下絵がどんなによく上がったところで意味はなかった。
 下絵は原寸大で描いたのでその必要もないのだが、念の為に目安の糸を張ることにした。
 木綿糸を碁盤目に渡してすみにソクイ飯ではりつけた。
 下絵の上に赤糸の方眼ができ上がった。
 るいが顔を出した。
 日に一度は必ず離れをのぞきに来た。よほど退屈しているのか、居候を観察にくるのか、いずれにしても暇をもてあましているに違いない。
 浩司は、差し当たって何もすることがないというのも何だかかわいそうだなという気がしていた。
「何、それ」
「広間の襖の下絵だよ。
 目安に案内糸を張ったのさ。墨画は本紙に下描きできないからね。
 きれいな色だろ、中国の墨だよ」
「へえ、そうなの。あしたから描くの」
「いや、天気とかいろいろ考えなくちゃね」
「襖に描く時は呼んでね」
「それは勘弁してくれ、人がいると気がちる」
「あら、そう、何よ」
 るいは相変らず、ふくれっ面をしている。
「お預かりしていたものを…」
 と庭から茂の声がした。
「ああ、ありがとう。そこへ置いといてくれ」
 茂は何かほかに言いたそうな様子だったが、るいがいるのを見て、頭を下げたままで姿を消した。
「私、あの人嫌い」
 るいは一層口をとがらせた。
「そんなこと言うもんじゃないよ。しっかりやってるじゃないか」
「そりゃ、そうだけど。
 しっかりしすぎてるのよ。母親がいないと思って…
 みんなあの人の言いなりよ。
 私を早く追い出したいんだわ」
「そんなこたあないよ。
それとも、いかず後家でいいのか」
「知らない」
 るいはぷりぷり怒って出て行った。

 浩司はなかなか襖に書き下ろす、踏ん切りがつかないでいた。
 と言って、いつまでも何もしないでいるわけにもいかず、花を生けたり写生をしたりで日を過ごしていたが、苛立ちがこうずるばかりだった。
 何も考えずに、早いとこ仕事に入ってしまえばいいのだが、わかっていてもきっかけがつかめぬまま、何やかやと口実をつけては、ずるずると一日のばしにしていた。
 るいの生花を見てやってくれ、と御当主に頼まれていたのをいい事に、今日も筆を持たなかった。
 五日に一度ほどの割で、花を生けかえる為に各部屋をまわる。
 るいを伴って庭や竹藪に入り、適当なものを切り花にした。
 るいはきれいに咲いた花だけを切り集めて、取り合わせというものを全く考えていない。
「そんな大輪ばかり切って、どう生けようってんだ。
切ったものはしょうがないが、よく考えてから切れよ」
 絵のことでいらついていた浩司は、つい物言いがぞんざいになっていた。
「だったら、切る前に言ってくれたらいいじゃないの。
自分でやってよ。
 何さ、きれいだったらそれでいいじゃない」
 るいは花の篭を浩司からもぎ取って、木剪のにぎりを突き出した。
 浩司は気まずい思いで、葉蘭やワレモコウを切り集め、二人共口を聞かず、ハサミの声だけが大きく響いた。るいは仏頂面で突っ立ったまま、浩司がわたす切り花を篭で受けた。
 るいは井戸端にしゃがんで、花の水切りをしている。うなじのおくれ毛がまだ幼さを残していた。
 嫁にいったら、わがままも言えなくなるのだから、何かかわいそうな気もする。
 身内にものを教えるのはむつかしい。
 るいはさっきから水音だけはたてているが、一向にはかどる様子もなく、そのうちに背中をふるわせてしゃくり上げていた。
 何も泣くことはないじゃないか。
 女に泣かれるのは、本当に困るのだった。
「泣くなよ、悪かった。俺が悪かった」
 少し大きな声を出したくらいのことで、いちいち泣かれたらたまらない。
 浩司は一人で竹藪に入り、野ぶどうのつるをたおった。
 るいには一から教えないと駄目らしい。
 るいはどうやら泣きやんだらしい。
「いいか、床の間にはどの花がいいと思う」
 るいは大輪の菊を取った。
「それは仏間だ」
 今度は、名残の鬼百合を指差した。
「こういう派手なのは玄関のほうがいいよ。
 桔梗とワレモコウをあしらおう。
 ぶどうのつるは廊下の掛け花に下げてもいい。
 床の間は、特別な時以外あまりうるさくないほうがいい」
 るいは神妙な顔でかしこまってはいるが、あまりあてにはならないようだ。
「水盤は洗ってあるか」
 るいはこっくりとうなずいた。
「ま、だんだんにおぼえればいいさ」
「男のくせに、花なんか生けておもしろいわけ」
 るいの機嫌はまだ、なおっていないらしい。
「そうおもしろいとも思わんが。俺は絵が描ければ、ほかのことはどうでもいいんだ。
 絵の役に立つと言われれば、花も生けるし茶も立てる。おもしろくなくても気にはならん。
 まあ、それに、役に立っても立たなくても、暇つぶしにはいいもんだ。
 おるいちゃんも、そのうち何の役にも立たないでも、暇つぶしが必要な時がくる。
 一人でできる手すさびがあったほうがいい」
 浩司は言葉を切ると、機屋から筬(おさ)を打つ音が低くきこえた。
「嫁に行っても働くことはないだろうが、何もしないわけにもいかない。誰にでも暇つぶしは必要さ。
 本当は、茂みたいな女をつれていけると安心なんだが、嫁にいったらまわりはみんな他人なんだから、婆や一人じゃ心配なことだ」
 茂が茶を運んできたのを見て、るいはぷいと出ていってしまった。
「残った花をかたずけてくれ」
 篭と手桶のほうにあごをしゃくった。
「花を頂いてもいいですか」
「ああ」
 浩司は足をくずして茶をすすった。
「浩司様は、きれいな手をしてなさいますね」
 茂がうっとりと言った。
「そんなことはないよ。
 ほら、指の先は絵の具で真っ黒だ」
 茂は恥ずかしそうに、自分の手をうしろに隠した。まりのようによく肥えて日焼けした大女には不釣合いのしぐさだったが、分厚い唇からのぞく白い歯はきれいにそろって輝いている。
「あとは頼んだよ」
 花を生けてしまうと、もう何もすることがなかった。
 下絵を並べてにらんでいても、らちが開かない。しかたなく、井戸端で下帯を洗濯した。この屋では十三歳になると、たとえ御当主だろうと跡取りだろうと、下帯だけは自分で洗う決まりだった。
 確かに、これといってすることはないし、他人に頼むより自分でしたほうが手っとり早い。
 手を動かしていると、気持ちが楽になる。
 襖はドウサ引きもすんで、描くばかりになっていた。

 布団に入っても寝苦しい。
 秋風が立ち始めたとはいえ、くもったりするとまだまだ蒸し暑い。せっかく調えてくれた新しい布団がかえってうらめしく、足を半分畳の上に投げ出していた。
 それでも浩司は少しうとうとしていたようだった。
 異様な胸苦しさに、はっとして目覚めると、浩司の体の上に何か巨大な肉塊がおおいかぶさって、うごめいていた。
 とっさのことに、何が起こったのかのみこめぬ。夢かと思ったが、そうでもない。
 うっとうしい夜は雨戸を引かぬことも多く、ねぼけ半分で寝静まった母屋を起こすわけにもいかず、声を出すことはためらわれたが、どうやら泥棒ではないようだ。
 田舎のこととて、盗っ人が出たという話も聞いていない。
 月明かりもなく、目を見開いても同じことだったが、その息遣いから茂だとわかる。
 思いのほか肌はなめらかで、弾力があった。
 ちょっと待て、と女の耳元にささやいて起き上がろうとしたが、茂の体はびくともしない。
 長い間、絵筆しか握っていないので、すっかり体がなまってしまったとみえる。
 てのひらで押し上げようとしても、ずぶずぶと、女の腹の中にうまっていくばかりだった。
 茂の着物の前がはだけ、陰部の剛毛が密集してぞりぞりする感触が、浩司の腹部に合わさった。
 まあ、これも成り行きかな。
 浩司は、はがいじめにされたままで、体を動かしていた。小娘ではあるまいし、面倒なことにはならないだろうが,孕まれたりしたらえらいことだ。
 最後の瞬間、思いっ切りの力で茂を突きとばして、引き抜いた。
 股間に下帯をあてがうと、生ぬるい精液がずるずると伝った。
 真っ暗やみのことで、物音はするが茂がどこにいるのかわからない。
 久方ぶりの女とはいえ、何だか情けないことだった。

 ゆうべの一件があったからというわけでもないが、浩司は人々と顔を会わすのが億劫でもあり、茂が通いつめるようになっても困るし、もう仕事に没頭するしかなくなっていた。
 茂とはこれっきりにしよう。
 ぐずぐずしていれば、いずれ人の知ることとなろうし、そうなれば、一緒になるか逐電するかどちらかだった。
 今はどっちも御免だ。今はそれどころではない。
 浩司はようやっと襖にかかる決心がついた。
 そう決まると、暗いうちから起き出して、水をかぶって体を清めた。
 婆やが一人、仏間で念仏を唱えている。年寄りは朝が早い。
 仕事にかかるから誰も広間にはこないでくれ、食事はにぎり飯を頼むとことづて、部屋にこもった。
 襖をはずし、畳の上にねかせて、その上から足場の乗り板を渡して、ひとまず下絵をにらみながら墨をする。立てたまま描くか、ねかせるか随分まよった末、いつも通りにやることにした。
 日が昇って、天気もまずまずだった。
 胡粉で、当たりを付けるまでもないだろう。
 筆、水桶、道具を並べ、大きく息を吸い込んで乗り板にすわった。 描き進めるにしたがって、板に乗っている我が身がもどかしく、板をまわりにけりのけ、柱に襖を立てかけた。
 初の大仕事だと慎重になりすぎていた。墨がたれないように気をつけさえすれば、かえって動きやすい。次の間に描き終わった襖を移してねかせる。完全に乾くまでは、平らにおいた方が無難だった。
 最後の一枚を終え、浩洋という新しい雅号を署名する。一気に描いてきたせいか、細筆に持ちかえたら、手が震えた。
 いよいよ落款を押す。襖紙がぶかぶかして押しにくい。
 そっと印を上げると下からくっきりと朱文が現れた。印肉の油気を吸わせる焼きミョウバンを印譜の上からふった。
 四枚の襖を一続きに並べて、上から見下ろした。すると浩司の前に深山幽谷の幻影が立ち上がり、あたりは霧に包まれ、霞が目の前をおおい、浩司はその場に昏倒した。
 しばらくして、目を開け天井を見上げて節穴をかぞえていたら、にわかに空腹をおぼえた。
 はっていって障子を開けた所に、にぎり飯と、土瓶ののった盆があった。腹ばいのまま一口かぶりつく。満腹になると急に眠気がおそってきた。
 障子を閉めて、どうせ乾くまで何もすることはないのだからと、浩司はいぎたなく寝入ってしまった。どれくらいたったか、指にすべすべした物を感じて目覚めた。
 だらしなく大の字になった腹の上に着物がかけられている。絹物だから、るいが来たのだろう。軽袗をはいていたからいいようなものの、ぶざまな姿を見られては、生け花の師匠としては示しがつかない。
 起き上がって、着物をはぐ時、袂に匂い袋でも入っているのか、いいにおいがした。
 もう墨はすっかり乾いている。油煙墨より、いくらかにじみが多いような気がする。
 しかし、これで何とか絵師であることは証明できよう。
 描いてから表装するのが手順と思っていたが、仕事になればそんな言い訳は通用しないし、頼まれれば何でもこなさなくてはいけないのがつらいところだった。
 浩司が絵描きだと知ると、素人はすぐに何にでも描いてもらいたがった。汚れた手拭いを出されたことさえある。
 仕事なのだからいい加減なことはできないし、ただで働くわけにはいかないのだが、しょせん道楽くらいにしか思っていない。浩司はそれが腹立たしかった。
 大作を仕上げれば、絵師としての面目も立とうというものだった。
 注意深く襖を順にはめてから、縁側に出て遠くからながめ、我ながらまずまずだ、と独りごちた。
 道具をかたづけながら北尾派の『略画式』だの北斎漫画の写しだのをめくって、東の襖の楼閣山水図の構想をねった。以前から考えは決まっていたのだったが、片側ができ上がってみると、また少し考えがかわってきた。
 離れにもどりながら浩司はあれこれ思いをめぐらし、るいの着物を片手で引きずってきたことにも気づかなかった。

 楼閣図の基本はそのままでいいとしても、湖畔に美人を立たせようと思いついた。
 遠景ではあるが、その美人に何とかるいの面差しを写そうと決めた。すぐに嫁に行ってしまうのだから、御当主も喜んでくれるにちがいない。
 浩司は人物の入る場所をあけて下絵に入った。使いなれた油煙墨はなめらかではかどる。
 描き始めると昼夜もわからなくなる。
 るいがランプを持って入ってきた。
「じゃましていい」
「ああ」
 浩司は筆を口にくわえたままこたえた。
「ちょっと見せてもらってきたわ」
「ほかの者にはまだ見せるなよ。御当主には全部そろってから見てもらう」
「いいわ、私が見張りしてやる」
 それには及ばぬが、るいが出入りすれば茂は当分近づかないだろう。
 浩司は、るいの着物に気がついて、ぶざまなところを見られて、気恥ずかしくなった。
「これ、ありがとう」
 受け取ったるいも仏頂面は相変わらずだったが、耳たぶだけが白い首筋の上に赤く染まった。
 それから、着物を丸めてそそくさと立ち去った。
 浩司はランプを引き寄せ、文机に向っている。畳の上は描きちらした下絵でいっぱいになっていた。
 るいの大首を何枚か描いてみたのだが、湖畔の美人は唐風の衣装の横向きの立ち姿と相場は決まっているし、横顔だけでそれとわからなければ意味はない。
 あらためてるいの特徴を考えてみたら、急にぼんやりして、さっき見たはずなのに思い出せない。描いた絵も似ているのかどうか、あやしくなってきた。
 うしろをふり返り、畳があいているところをみつけて仰向けにひっくり返った。
 意味もなくため息が出る。
 中廊下の障子があいて、夕食を運んできたるいが、さかさに見えた。
「わあ、いっぱいじゃない」
「廊下においといてくれ」
 浩司は起き上がるのも億劫だった。
「ちゃんと食べないと、体にさわるわ」
 のろのろ身を起こして、下絵の紙をかきわけた。
 一段低くなった廊下から座敷への上がり框(かまち)に腰をおろした。
「ここで食べるか」
 浩司は口いっぱいに、にぎり飯をほおばって、茶を入れているるいの横顔を目だけで追った。
 こういう顔をしていたのか。
「やだ、何よ。じろじろ見て」
 浩司は口をもぐもぐいわせ、首を振った。
「お酒あがるんだったら、母屋にきて」
「いや、今日はやめとくよ。
 おるいちゃん」
 急に名前を呼ばれたるいは、びくっとして浩司を見た。
「こっち向かないで、横顔を見せてくれないか」
「何よ急に、いやだあ」
 そう言いながらるいは、横を向きあごを引いて固くなっていた。
 まあ、造作は並みだが、着飾って美人といっしょにいれば、まぎれてみえる。
 これなら嫁入りの中宿(なかやど)で、そう恥をかくこともあるまい。
 このあたりの習いで婚家に嫁入る前、道中の途中に中宿を置き、村の美形の若妻が数人婚礼衣装に身を包んで待ちうけて、とっくり比べられるのだった。
 形式的なものとはいえ、面相の品定めには変わりなく、ここで粗相があっては、後々肩身の狭い思いをする羽目に陥る。
 るいは、気が強そうだから、そんなことで気おくれすまいし、口上も問答も堂々と切り抜けられることだろう。
「ちょっと、下絵の参考にね」
 浩司はるいの横顔を、紙の上に刻みつけていった。色白ではあるが、これといって特徴のない顔は、何度も描いて線でおぼえるしかないようだった。
 うなじから肩にかけての線も大事だ。
「似絵(にせえ)かいてくれるの」
「そういうわけでもないが」
 返答はほとんど上の空だ。
 るいはあきてきたらしかった。
「すわっていい」
 浩司はるいを立たせたままでいたことも忘れていた。
「もう御膳、下げてもいい」
「ああ、ごちそうさま」
 浩司が気のない返事ばかりなものだから、るいはすたすた母屋に戻っていってしまった。
 何度も線をなぞっていたら、紙は真っ黒になっていた。

 今日は一日休むとしよう。
 下絵やら何やら畳いっぱいに広げておけば忙しそうに仕事をしていると思うだろう。
 ここが居候のつらいところだった。
 浩司はるいの似絵を何枚も描き、一枚ごとに徐々に寸法を縮めていった。襖に入れるのは、三寸にも満たない。頭なぞ梅干しくらいなものだ。動きのない立像でもあり、少ない線を墨だけで表わさなければならない。
 木陰に入った画室は日差しが遠のき、閉め切った障子が時折、風でパタパタとなる。
 昼を過ぎ、腹のくちくなった浩司は、その場に寝入ってしまった。

・・目の前は、一面霧が立ち込めていた。
 ほの暗い木々の間から、ちらちら光が射して、しだいに近づいてきた。
 光の間に唐人の女がすべるようにやってくる。その白い顔は確かにるいのものだ。
 着ている衣装の色も形もはっきり見えているのに、不思議と薄衣(うすぎぬ)は透き通って、裸身をあらわしていた。
 ずんずん近づくにつれ、その体は野放図に巨大化していき、目の前を真っ白におおった。
 浩司は、ああーと、実際声をあげた。その自分の声で目覚め、霧は一瞬にしてかき消えた。
 とび起きた浩司は、湖畔に美人を立たせ、細筆で裸身のとおりに衣装をなぞった。
 浩司は、いつぞや湯殿で見たるいの裸身を、今はっきり思い出していた。
 
 浩司はいつになく神妙に、居住まいを正して広間にいた。
 東の襖は、もう要領がわかったので、本紙にすんなり入れた。
 四枚並べて、はすに立てかけておいて、一気に描き上げた。
 この分なら、襖をはめたままでも描けそうに思ったし、壁でも何でもこなせそうな気がした。
 あとは、人がいても平気で描ければいいのだが、この点はまだ気恥ずかしさが先に立ち、見られていると集中できそうになかった。
 玄人は見栄が切れないと、人々にそれと認められないのだ。
 しかし、まあ、最初の大仕事は無難にこなしたわけだった。
 縁側の障子があき、御当主が浩司のうしろに立った。体をひねってふりむいた脇を、るいも後に続いて入ってきた。
「ほお、でき上がったか。いや、これは見事。
 わしは先代のように風流は解さぬが…。
 いや、なかなか」
 浩司は、御当主がいつ美人画に気づくかと待ちかまえていたが、一向にその気配がない。
 やはり、北側の雄大な山水にばかり見入っている。
「函谷関の風景を模したものです」
「はあ、なるほど」
 御当主は腕をうしろに組んで立ったまま、順に襖絵をながめていった。
 ちょうど湖畔あたりを見ていると思われるところで、声こそ出さなかったが、御当主の肩がぴくっと動いたように思えた。
 浩司は御当主の言葉を待ったが、何も言い出さず、気にいったのか、いらぬのかわからない。
 誰も何も言わないものだから、浩司はるいの方をちらと見た。るいは困ったような曖昧な目で笑った。
「墨の種類がちがうんですよ。わかりかすか」
「おお、なるほど」
 浩司が言葉を発して、何だかみんなほっとしたようだった。
 美人図には触れないでおこう。
「関谷関は中国の墨を使ったんです」
「大したもんだ…」
 御当主はぶつぶつ言いながら、背中を丸めて行ってしまった。るいが後を追いかけた。
 御当主は襖絵をどう思ったのか、浩司にはわからないが、娘の似絵を見るというのは、案外照れくさいものかもしれないし、それだけ似てはいたのだろうから、目的は果したわけだった。

 とにかく、一仕事終わった安堵感で湯殿へ向った。白い紙をずっと見てばかりいたから目の芯がきりきり痛み、湯気が立ちこめて、どこに焦点を合わせたらいいのかわからぬまま、ただぼうと湯舟につかっていた。
 浩司が座敷にまわった時、もう全員そろって膳についていた。
 何日のことでもなかったのだが、随分久しぶりに膳についたようにも感じ、浩司は自分一人が遠く離れていたような気がしている。
 事実、この数日間、何が起こったか起こらなかったか知らないし、時間は浩司の内部でだけ過ぎていった。
 浩司は茂とも誰とも目をあわせないように顔を伏せていた。
 御当主の考えが気になったが何も言わないし、長居は無用と、膳がかたづけられたのを潮に、立ち上がろうとしたところを呼び止められた。
「まあ、そう急がんでもいいだろう。
 つきあってくれ」
 るいが酒を持ってきた。
「ご苦労だった」
 浩司は頭をかいた。髪は大分伸びて、それはそれで、うっとうしいものだった。
「実は頼みたいことがあるんだが…。
 いや、大仕事の後だ、ゆっくり休んでからでいいんだが」
 と言って奥の部屋へ行き、屏風の前に立った。
「これなんだが、何とかならんかね。コーさんにまかせるよ。
 張り替えたほうがよければそう言ってくれ」
 全体淡い色であっさり型染めしただけの八双の屏風だった。これといって、いたみはないが数か所しみができている。
「このままいけますよ。このしみさえかくせば新品同様だ」
「張り替えて何度も使わぬうちに、汚してしまってな」
「やってみます」
 屏風をまかせるというのだから、御当主は襖絵を気に入ってくれたのだろう。
 もっとも、気に入らないといわれても、描いてしまったものはもう、どうしようもない。
 酒がうまかった。
 こういう時は、あびるほど飲んで、酔いつぶれてしまうのが一番だ。
 浩司の一日は、茂からのがれる方策で決定されるようになっていたので、何にせよ処し方は迷うことなくすぐ決まる。
 浩司は、茂の何を恐れているのかわからなかったが、年上で体力も知恵もあり、つかまったら最後逃げられっこないことはわかっていた。

第二部の2につづく

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