風姿訛伝
または凡庸な田舎絵師の肖像  第二部の2

古井みち子 作 (無断転載を禁じます) 

 浩司は、だいぶ日が高くなってから、ようやく目覚めた。
 頭がずきずきして、むかつく。
 るい付きのお峰が、梅干しと茶を持ってきた。
「ご用があったら、呼んで下さい」
 るいの計らいか、ともかくこれで茂は近づかないはずだった。
 峰はるいの子守奉公に入ったのだから、二人共年はいくらもちがわない。峰はこの家で育ったようなものだが、おとなしいせいか浩司はほとんど記憶していなっかた。
 年下のるいの後にくっついているだけであまりあてにはできない。
 ぼんやり一日中飽きもせずにランプのほやをみがいていたりしている。これでは、とてもよそでは勤まりそうになかった。
 冷たい水で顔を洗ったら、少しすっきりした。
 物売りでも来たのか、母屋のほうが、何やらそうぞうしい。
 機屋から織子達が、あわただしく出入りしている。
 座敷には、反物や白生地が広げられ、紺屋の番頭が座っていた。
 るいは見本の小ぎれをかわるがわる見くらべていた。
「ねえ、コーちゃん、どうしたらいいと思う」
「その綸子(りんず)かね」
 亀甲と流水模様の二反の白生地に何をかけたらいいか思案していた。
「亀甲の地模様に負けない柄にするのも手だし、地を生かして無地でもいい。流水のほうはたいていのものはいける。要するに何でもいいわけだ」
 浩司は、これでは答えになっていないなと、ずっしりと持ち重りのする紋縮緬(もんちりめん)を手に取った。
 大きめのぶどうの房をちらした地の模様通りにひろって地紋おこしに染める反物だ。
「最近は、そうした大胆な新作がはやりでございまして」
 座敷いっぱいに広げられた反物から、大巻きの白生地がうやうやしく取り分けられている。
「私どもにおまかせ頂ければ、自身を持って仕上げます。
 何、大急ぎでいたしますよ。
 一年ありますから、何とかなるでしょう。
 みごとな大振り袖になりますよ」
 いくら紺屋でも、婚礼となれば、やなあさってということもなかろう。
 るいの嫁入りの準備は着々と進んでいた。
 あと一年あまりの間、浩司はるいが恥をかかないように、自分の知っていることは全部教えておこうと思っている。屏風も衣装に負けないよう華やかなものにしよう、浩司のできることといったら、それしかない。
 急いで離れへ、取って返した。

 浩司は屏風の前で、腕組をして座っている。
 しみの位置を確かめ、上から扇面貼り付けにすることに決めた。三十六歌仙を散らすことも考えたが、汚れはそう多くなく、書に自信もなかった。扇は十面もあれば足りる。
 紙を広げて筆を持っていれば、 人は仕事をしていると思うから、 そうしているものの、あい変わらず、頭はずきずき痛んで、紙を無駄にしているだけだった。
 扇面は、おめでた尽くしでいいとして、地にも切り箔をほどこすことにした。
 金銀をふんだんに使いたいところだが、銀は時がたつと黒変してしまうから、金箔以外は使うなと師匠から言われていた。
 代わりに、絵の具と雲母(きらら)で描く技法を受け継いだ。雲母はまがい物や代用品ではない、というのが師匠の持論であった。
 浩司は、るいの門出にふさわしいように、持てる技法を全て注ぎ込むつもりだ。大きな仕事など、そういつでもあるわけではないのだから、絶好の機会ではあった。
 机に向って、下絵のまたその準備のために、扇の形をいくつも描いた。
 屏風の仕事だけでも、この冬はもつ。一人、二人の食客がいたからといって、どうということはない家ではあるが、何もしないでぶらぶらしているというのもつらい。
 しみのある屏風の下側に扇面を配し、地のあいている上側からは切り箔を置き、序々に金砂子を薄くして、 雲母引 (きらび)きにつなげてぼかすと映える。その逆でもいい。
 ずっと机に向っていると、目が疲れる。時々顔を上げて、遠く見たり、首をまわしたりする。
 庭の鶏頭の花のてっぺんに、とんぼが居心地悪そうにとまっている。
 浩司は紙の余白に写生した。
 それから『和漢三才図譜』の写本をひっぱり出して、しょざいなく秋の虫を描いて時間を過ごした。

 浩司は、いよいよ屏風を持ち出して、平らに広げた。 中程から雲母の粉をニカワで引く。金箔のくずを金網の上から丸筆でこすって金砂子をまいた。大きさがふぞろいでも、それもまた一興だ。
 雲形を入れたほうが華やかだと思いついて、いろいろな雲を紙に描いて切り抜いた。
 一回目のニカワが乾いたところで、雲形を散らし、 雄型、雌型とりまぜて置いた上から、ニカワを一刷毛(ひとはけ)した。更に目の細かい金網にかえて砂子をまく。紙を取り除くと、金色の雲があらわれた。
「いやいや、みごと、みごと」
「ああ、これは」
 御当主が、後に腕を組んで立っていた。
「しみの上には扇を張り込みますから」
「そうか、そうか。先が楽しみだ。
 ところで、コーさんは弟子は採らんのか」
「とても、とても、弟子をとるような身分じゃありませんよ。まだ半人前ですから」
 屏風の下のほうに扇面の形をした紙を置いた。
「こんな具合になります」
「ほお、なるほど」
 御当主は首をふりふり、中廊下に消えていった。
 絵にかかると、ついつい熱中して仕事はすぐに終わってしまう。
 この家だとて、いつまでもいられるわけもなく、いずれ出て行かなければならない。
 しかし、今は先のことは考えたくない。できるだけ仕事を引き伸ばして、扇面は思いきりこりに凝るつもりでいた。
 扇面の細かい根をつめる作業も苦にはならない。仕事があればそれでいい。
 文机の上には、最初の一面がほぼできていた。めでたい図柄といえば、まずは「高砂」と決まっている。
 住吉の松と高砂の松を背景に置いて、まわりに金泥をたっぷり使った。金は緑青にも代赭(たいしゃ)にもしっくり合う。華やかではあっても、けばけばしさが目立つようではいけないとは、師匠の口癖だった。
 老松の化身の翁 (おおじ)、媼 (おおな)の穏やかさを出すのはなかなかむつかしい。彩色が終わり乾いてから、ところどころを胡粉でもって白くぼかしてみた。
 始めは、共白髪(ともしらが)の立像ではなく、面だけを配すことも考えたが、能面は別の扇に入れることにした。そうでもしないと、種切れになる。
 細かい作業ばかりで、一月(ひとつき)に三、四面がところがせいぜいだった。
 冬の間は画室にこもって仕事をしていればいいのだから、先のことは先で考えることにしよう。
 高砂の翁は、どこか御当主に似ていた。
 少し時間が早いと思ったが、雨戸を引いた。風を入れたい時は、中廊下の高窓を開ければいい。そうすれば、邪魔が入ることもない。金箔を使っている間は、昼でも障子を閉め切っているから、使用人達は誰も離れに近づかなかった。
 ランプの光を頼りに、仕上がった扇面がいたまないように、紙にはさんで文机の引き出しに納めた。 畳に寝そべって粉本をぺらぺらめくっていると、生ぬるい風が顔に当たった。
「コーちゃん、いい」
 浩司は起き上がりながら、気のない返事をした。
「なんだ、おるいちゃんか」
「屏風はかどっている」
「ぼちぼち」
 閉め切った部屋の中のことで、るいのびん付油のにおいがうっとおしい。時折高窓から風が入り、なおのこと鼻について、浩司はいら立った。
「暗くなってから、男の部屋に来るもんじゃないよ」
「なによ、その言い方。せっかく水菓子持ってきてあげたのに」
 るいも負けずに言い返し、怒って立ち去るのかと思ったら、その場に座り込んでしまった。きつい目で、浩司をにらんでいる。
「いや、その…嫁入り前の娘に変な噂が立ったら困るだろう」
「別に知ったことじゃないわ」
 浩司はるいの挑戦的な表情に、むっとした。
「男を見くびるもんじゃない」
 つかつかと歩み寄り、るいの手首を思いっきりつかんで、ねじ上げた。
 るいは一瞬びくっとたじろいだが、力をこめて拳を握りしめ、そこで奇妙に力がつり合い、そのままにらみ合って、二人共動きが止まった。
 浩司は、つかんだ自分のてのひらが汗ばんでくるにつれ、しだいに気持ちがなえて、力が緩んでいくのだった。
「なにさ…」
 るいは低い声で吐き捨てるように、口の中で何事か言ったが、浩司には何と言ったのか聞き取れなかった。
 浩司の腕をふりほどいて、るいはスタスタと立ち去った。
 銘仙の普段着の後姿が視界から消えるのを見届けてから、浩司は何事も起こらなかったことで、少しほっとした。
 仰向けに寝ころび、皿の上の梨の実を、がりがりかじった。

 ・・浩司は霧の中にいた。雨かもしれない。
 屏風の中の図柄が、ぞろぞろはい出てこちらへやってくる。
 鶴だの亀だのはまだしも、竜だ麒麟だ鳳凰だとなると、浩司は描かなければよかっと思っている。
 ああ、これは夢なのだ、とわかっているのだが、相変わらず百鬼夜行はまわりをぐるぐるはいずりまわる。
 いつしか異形の者等の輪がとけて、ぼやけたと思うと、中から、何物かが裸身をさらし玻璃(はり)の馬にまたがった姿で現れ、人馬は雲母と黄金にまみれて、おぞましく駆けまわるのだった。
 目の前に勝ち誇ったるいの顔があった。
 手綱(たづな)を引くと同時に馬が大きくいななき、前足をはね上げ、浩司に襲いかかった。
 突然、玻璃の蹄が浩司ののど元を押さえつけ、ぎりぎりくいこんでくる。それは胸苦しいというより、体の中をつきぬけるような感覚であった。るいのかん高い笑い声と、馬のいななきがいつまでもこだまして、浩司の目の前に黄金の塵が舞っていた。

 いつ目覚めたのか、はっきりしない。重くなった陰茎が下帯の間にはさまって痛み、浩司はようやく、境目のない覚醒から、引きはがされた。
 起き上がって、帯をはずし、陰茎をしごき続けている。
 いくじのない話ではあった。
 いい絵の具を買うには金がいった。あくせく仕事をこなすのもいやだ。もとより、金の苦労はしたくないから、事を起こす気など、初めからありはしない。いっそ自慰こそふさわしい。
 飛び散った粘液が、放心と不快感とないまぜになって指先にからみついた。

 屏風は正月こそ間に合わなかったが、もう九分通りできていた。ここまできたら、あせっても仕方ないし、冬場は日が短くて仕事にならないと、言い訳じみたことを考えて、年が明けてからは、日一日と日の出の時刻がはっきり早まっていくのを、うらめしく過ごしている。
 雨戸の節穴から朝日が射し込んで、外の景色が障子に小さくさかさに映り、風でもあるのか時々、ぼやけた景色がゆれた。
 浩司は冷気に身震いしながら、布団をかき合わせた。
 布団の中で、いつまでもぐずぐずしているのが心地いい。
 このごろ、るいの姿を見かけなくなった。
 嫁入りが本決まりとなれば、次々とこなしていかなければならぬことが山ほどあり、一人でいることもかなわないのだろう。
 そして、半年もすれば、いなくなってしまうのだ。
 茂も、作男かなにかと一緒になってくれるといい。浩司はすべてが、自分の関係ないところでうまくいってくれることを、願うばかりだった。
 浩司には、絵を描くしか能はないのだし、その絵にしたところで、お情けでまわってくる仕事をこなすだけだ。
 そのうち、陰気な女と一緒になって、気の利かない弟子を置き、愚痴をこぼしつつ生きていくことだろう。
 それが、分相応というものかもしれなかった。
 朝食を食べて、腹もくちくなった。
 火鉢で鉄瓶の湯がたぎっている。 浩司は茶道具を出して、薄茶を点ててみる気になった。茶道具といえる代物ではないが、暇を持て余している身ゆえ、手入れにおこたりはない。
 屏風の仕事は、あと一歩だった。おおよそのめどがつくと、途端に進まなくなる。
 いつもそうだ。竹筒にさした、藪椿の真紅の花弁が、ほとんどてらつくばかりに鮮やかだ。
 庭から、意外にもるいの声がした。
「一人で、お楽しみだこと」
「いや、道具も手前もいい加減で、人にふるまうほどのものじゃないからね」
 るいは南側の縁先から上がって、 尻をこちらに向け踏み石の上に履物をそろえていた。
「屏風、もう少しね」
 寝かせた屏風の上に扇面を配してみるが、なかなか位置が決まらない。
 るいの前に、寺で戯れに焼いた茶碗を差し出した。
「準備は進んでいるかい」
 茶の最後の一すすりの音が、浩司の耳にひどく大きく響いた。
「まあね。でも、つまらないわ」
「そんなことはないだろう。誰だって一番いい時じゃないか」
「ねえ、ねえ、知ってる。去年の春のことなんだけど、四つ辻のとこのおミヨちゃんなんか、嫁入りの三日前に歩き売りと駆け落ちしたんだから。気持ちわかるわ
 ああ、やんなっちゃう」
 るいは相変わらず仏頂面だったが、 馬鹿なことをしでかす気があるようでもなかった。
「ま、家にいる間は、のんびりしていればいいさ」
「みんなそう言うけど、何もしないのも退屈よ。 日に焼けるから、外に出るなっていうし」
「じゃあ、俺がこき使ってやろうか」
 ほとんど意味のない言葉だけがかわされている。
「写本でも、してみるか」
「できるかしら」
「自分にわかればいい。売り本じゃないんだから。
 だが、手が汚れると、おこられるか」
「かまわないわ、ずっと先のことだもの」
「そこにある。気に入ったのだけを写せばいい」
 違い棚にのっている、草子本を指差した。
「手始めに、カルタの百首でも書いてごらん。
 絵を入れるんだったら、彩色はこれでするといい」
 浩司は引き出しからパステルの箱を出して、 散らばっている下絵のすみに塗ってみせた。
「ぼかしは、俺なんぞは指でやってしまうが、手を汚さないように紙でするといい。
 すれると色が落ちてしまうから、紙をあてておかないと駄目だ」
「いろいろ面倒ね」
「そうでもないさ」
 浩司は、更に下絵にパステルで彩色し、墨をけずって作った棒で影をつけた。
 パステルを止める方法はないかと思案して、ニカワを筆でぬってみたが、やはりすれて色が流れてしまう。
 もう、こうなるとまわりのことは眼中になかった。
「そうだ、霧吹きを使おう」
 ニカワは少しうすめないと、つまる。浩司は吹き口を口にふくんで、試しに宙に思いっきり勢いよく吹いた。水のようにはいかないが、まずまずだ。
 彩色した下絵に、むらなく霧を吹いた。
 るいは不満顔で、文机に向かって筆を動かしている。
 仕事は急ぐわけでもないし、るいはじきに飽きるにきまっているのだから少しは相手をしてやろうと思い直して、浩司は写本用の紙を袋とじにするように、真ん中で折ってやった。
 しかし、そのそばから、パステル画のニカワが乾くと、指先で上をなぞって、二、三回かけ重ねれば完全に止まるな、パステルは淡い色彩だから骨描きはなくてもいいかもしれないと、考えているのだった。
 るいがいる間は仕事にならないとあきらめて、パステルと炭棒で直接紙にるいの似絵を描いていた。

 明るい色の十日町のあわせの裏は豊紫が付いていて、裾からメリンスのけだしがのぞいていた。足袋のこはぜがきつく足首にくいこんでいる。
「寒くないか。着物を汚すなよ」
 ふり向いたるいが、にっこり歯を見せた。
「これからは、朝はここへ来るわ、いいでしょ」
 浩司はとりとめもなく、ただ火鉢の灰をかきまわしていた。
 るいはすぐそばにいるのだが、何だかだんだん遠い存在になっていくようだった。別にどうこうしようという気もないが、自分だけ取り残されていくような思いだった。
 本家の一人娘のるいであってみれば、先行きわからぬ田舎絵師の浩司なぞ、もとより数に入っていない。御当主にしたところで、たまたまいる食客の一人として遇しているに過ぎない。
 まあ、家を出ている跡継ぎが帰ってくるまでの間は、にぎやかなほうが、放蕩息子の不在を忘れていられるということだったろう。
 るいは、それから飽きる気配もなく、毎日画室に小一時間はいるようになった。
 片葉に二、三首ずつ写したのが、随分たまった。たまり始めると勢いがつくらしく、この分では百首全部書くつもりらしい。達筆とは言いかねるが、読み易い字だ。るいは口をへの字にきつく結んで筆を運んでいた。
「空いている所へ絵を入れるといいよ」
「コーちゃん、描いて」
「ここまできたんだから、全部自分でやってごらんよ」
「コーちゃん、描いて」
 少し語調がきつくなった。
「ほら、話しかけるから、まちがっちゃったじゃないの」
「書き損じた所は、切り張りをして補修したほうがいい」
「紙ならいくらでもあるわよ」
「そりゃ、そうだが。紙は無駄にしないほうがいい」
 浩司は板の上で切り出した刀を軽くあて、 指先で紙を除いて、 書き損じを取り除いた。穴より一まわり大きい紙を当てて、指でおさえていた。
「よそでは、この家と同じようにやるわけにはいかないよ。紙は貴重品だ。
 それくらいは、わかっているかな」
「何をぶつぶつ言ってるの」
「ああ、糊は薄いほうがきれいにいく、っていうことさ」
 浩司は、今なぜわざわざ面倒なことをしているのかわからなくなって、新しい紙をるいに渡した。
 るいは、ひったくった紙に、また黙々と書き出した。
 浩司は紙の余白に、歌に合いそうな簡単な挿絵をさらさら描いた。るいは切り張りした紙を自分の文箱(ふばこ)にしまい、小下絵の中にも気に入ったのがあると有無を言わさず、どんどん箱に入れた。パステル画も吹きつけたニカワが乾いたところで、箱の中に納まった。
 この頃のるいは、とりつく島がない。時間が過ぎると、物も言わずに立ち上がって、ぷいと出ていった。るいが画室に来るようになってからというもの、午後になっても仕事にならない。この分では、写本が終わるまでは落ち着けないので、表紙絵でも描いてやるかと、紙を取り出した。
 貝合わせの貝殻の中に貴人の絵を入れた、決まりきった図柄でいいだろう。在原業平だの小野小町だのを配して、藤原定家「小倉百人一首」と表書きした。
 浩司の手も大したことはないが、るいよりはましだった。
 火鉢に火をたして、灰をかきまわしていたら、中から二朱銀が出てきた。先代が落としたものかもしれない。銀貨は灰にまみれて、白く熱い。

 るいが表紙絵を手に取ってかざした。
「色をぬってよ。こっちも全部」
 書きたまった紙を見て言った。
 浩司が彩色しているそばで、金箔や雲母を美濃紙にまいて、一人勝手に化粧料紙(りょうし)を作っていた。
「なかなかうまいじゃないか」
 浩司が声をかけても、るいは見向きもしなかった。

 どこから風が入ってくるのか、ランプの炎が時々ゆれ、灯芯からすすが立ち昇った。
 彩色の終わった写本を一まとめにして、綴じ方も知らないだろうから、唐綴(からと)じ本の図解もついでに書いておいた。

    _________ 
    |       ‖ ]
  四 | |風|     ◎=
  つ | |姿|     ‖ ]
  目 | |訛|     ‖ ]
  綴 | |伝|     ◎=
  じ |       ‖ ]
  本 |       ‖ ]
    |       ◎=
    |,    ,  ‖ ]
    | ';,,,;;;   ‖ ]
    |  ';;;;'   ◎=
    |   ';'   ‖ ]
     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 

 翌朝もるいは定刻にやってきた。
「綴じ方知ってるかい」
「知らない」
「じゃ、一応書いておいたから、これも綴じ込もう」
 半分に折った紙をきれいにそろえ、曲尺(かねじゃく)で軽く綴じ代に折り目を入れてから、千枚通しで穴をあけた。うがった穴に糸を通す。
 るいは熱心に見入っているが、糸を通す順序をおぼえたかどうかは、わからない。
「これでできた。あとはきれいな紙でも布でも背表紙にはってもいい。 帳面もつくろうか」
 浩司は、紙に裁ち包丁を入れて、小ぶりの帳面をこしらえた。
 るいは文箱に、でき上がった冊子類をしまって、紐をかけた。
「先生、どうもありがとうございました」
 頭を畳みにすりつけ、深々とおじぎをした。
 浩司はあっけにとられて、ただただ見ているばかりだった。

 屏風が仕上がると、浩司はもう何もすることがなかった。することがなくても、何もしないわけにはいかなかった。
 桐油引いた紙子(かみこ)の羽織を引っ掛けて、使い走りもしたし、庭の、芍薬、ゲンノショウコ、雪の下にほおずきと、薬草の植え替えもした。
 しかし、そんなことがいつまでも続けられるはずもない。浩司は気候もよくなったというのに、人目を避けるように画室にこもることが多くなっていた。
「コーさん、いいかね」
 御当主が障子越しに、声をかけた。上座にすわると頭をかいて、もじもじしている。言いたいことがあるが、言い出せず困っている様子だ。
 浩司は、ついに来たか潮時かな、と半ば観念していた。
「実はな、コーさん。何、その…」
 やはり、そうか…。
 御当主は何度も言いよどんだ。
「こんなことは頼めた義理ではないんだが」
 覚悟はしていた。早晩、身の振り方は決めねばならぬことはわかっていた。
「その、何だ。まあ、これを見てくれ」
 御当主は、意を決したように懐から巻子(かんす)本を取り出した。>{<
 浩司は巻物の押さえ竹を引き抜き、紐をといた。
「何ですか、これは」
「その、何だ。るいが嫁入るというので、行商のお兼婆がおいていったものだ」
 夫婦の契りの、閨中の成合図であった。
「これはひどい」
 経師こそ上辺は体裁を保っていたが、絵ときたら、一目で素人の手に成るものだということは歴然としている。
 様式美も洗練も何もない。ただ、ただ下手であるがゆえに、より猥雑だった。
「こんなものは、広げてしげしげとながめるわけでもあるまいが、これではあまりにみじめだ」
「しかし、私はこういうものは、やりませんので。どうも、ちょっと…」
 浩司は、もちろん、かってあぶな絵をやっている。師匠の肉筆を墨擦りしたものに、手彩色をほどこす。官憲の手入れをかわす為に、多彩色擦りはできなかった。墨版、一版だけ擦ってすぐに版元から引き上げ、密かに手彩色を入れる。
 この手の絵は、金持ちの好事家(こうずか)相手だけに贅を尽くしたものとなり、けっこうな小遣いかせぎにはなった。師匠といえば、ほとんどそれを、なりわいとしていた。
「無理は 承知の上だが、こんなことを頼めるのは、コーさんしかおらんのだ」
「わかりました。やってみましょう。
 私でも、これよりはましでしょうから」
「誰も画室には近づけないようにする。
 何、急ぐことはない、ゆっくりかかってくれ。
 女親がいないと、困ったものよのお」
 浩司は手元に残された巻子を広げ、ため息をついた。
 なんでこの俺が、るいの嫁入り用に『床入りの図』を描かなければならないんだ。
 この頃は、るいと言葉をかわすことも少なく、広い屋敷のことで顔を見かけることもまれだった。このまま、いつの間にか嫁にいってしまえば、世の中そんなものさと思えばいいのだし、それが浩司の身にとっても、望ましいことではあった。
 結局のところ、るいと何があったわけでもないし、どうなるものでもないから、かかわりなくやり過ごすのが一番だった。
 それにしても、身の因果がつくづくうらめしい。
 仕事となれば、愚痴を言っても始まらぬのだ。
 しかし、いくら男女の交合とはいえ、嫁入り用なのだから、収集家相手の枕絵とはちがう。錦絵のようにむき出しというわけにもいかないから、納め方に工夫がいった。
 浩司は巻子本の経師には自信がない。箱に納めると、かさばる。
 どの道、箪笥の奥に密かにしまい置かれるだけのものなのだから、小さくまとめねばならぬ。それだけのものに、大そうな労力をつぎ込むのも、馬鹿馬鹿しいことでは、たしかにある。
 それにつけても、素人の下手くそな、この絵はなんだ。
 人の神経を逆撫(さかな)でする卑猥な毒があった。
 浩司は、絵の修業をへた者には、こういう生々しい絵は二度と描けないのだと、今、思い知らされていた。
 素人の無知さかげんに、浩司は打ちのめされる。
 この野卑な凶暴さの前に、とうてい勝ち目はないのだった。
 どうしたものかと考えあぐねた末に、布団をひっかぶって眠ってしまった。
 
 若い衆が仕上がった屏風をおおい布にくるんで、倉にしまい込もうとしていた。
 浩司は、なかなかのできだったなと、図柄を思い出しつつ独りごちた。
 その時、はたと思い当たった。
 そうだ、かくれ屏風にすればいいのだ。
 障子をしめて、早速かくれ屏風の板返しの模型を作り始めた。
 厚紙を切り出して、六枚の小板にする。模型がないと、どこに何が出てくるのか、ややこしくてわからない。
 
 小板を三枚の帯で、互い違いに組み上げ、帯の両端は裏に返して糊で止めつける。
 表紙にする板から右へ引いたのを表とするとして、両面は草花図でいいだろう。季節の花々を、墨で簡単に描き入れておいた。
 表紙から左へ引くと、何もない裏側が出る。
 口にくわえていた筆を手にして、そこへとりあえず、〇印を入れた。
 組んである板返しをばらばらにすれば、どこに何が入るかがわかる。〇印は裏表六面になる計算だ。男女の絡みなぞ一枚でたくさんなのだが、こういうものは絵物語風に進めるのが常道になっていた。
 近くに誰もいないのを確かめてから、浩司は骨描きにかかった。
 寝所風景から入ろうかと思ったが、いきなり寝所というのも突飛なことではあるので、若い男女が向かい合った出会いの場面からいくのが、やはり自然というものだった。
 表三枚は紙の大きさの都合で絵は横になったが、こんなものは見やすくする必要もないのだ。
 一枚目は春の野で草をつむ乙女が、騎馬の若者と出会うところだ。近頃はやりの軍国調で軍服姿の若者にしようかとも考えたが、やはりここは普通が一番だ。
 この田舎では、憲法発布も軍国主義も教育勅語も遠い世界の出来事だった。
・・若い男女が馬を引いて館までやってきて、馬をつなぐ。男の家か、女の家かはわからないが立派な館だった。二人は館の中に消える。
 一転、華やかな宴、似合いの二人に一同祝福を送る。いつ果てるとも知れぬ饗宴から密かに抜け出した二人は、月明かりの下で静かに見つめ合う。
 ここで裏面へ行く。
・・池の端にひっそりと立つ寝所の引戸がひとりでにすっとあき、唐絹の夜具の上にどちらともなく倒れ込む。が、雲の上にふわりと乗ったかのように音はない。
 浩司のてのひら程の大きさの紙に、布団のしわの一つ一つ、女のおくれ毛の一本一本を細密に描き入れた。
・・男は半身女におおいかぶさり、長襦袢の裾が乱れて、女の太ももがあらわになる。
 陰毛の間から、わずかばかりほとがのぞき、男の陰茎は起き上がろうとし、女の首筋が後にそって、はだけた襟元から片方の乳房がこぼれる。
 浩司は筆先に全神経を集中する。
 絵師の目は、しだいに絡み合う男女に近づくと、すなわち着衣は消えてなくなる。
 目は、男女を斜め後から見つめる。
 裸体がうねり、陰茎が女の体の中に消えていく瞬間で止まる。
 絵師は面相の筆先の毛一本で、恥毛の一本一本の縮れを克明に再現した。
 男の顔を描くのは、やっかいだ。
 描かれる人物の顔は描く本人に似るといわれる。幸い男は後向きの姿が多いので助かった。男の顔が浩司に似ていては困るのだった。
・・男女が一体に融合すれば、絵師の目は遠のき、背景は虹色の霧に包まれて、あとは銀色の月夜ばかりになる。
 浩司は最後の一枚の骨描きを終えた時、もうすべてが完成していた。
 これまで銀箔を使ったことはなかったが、この絵に限って、 入れてみようと思っている。
 しまい込まれるだけのものなのだから、それほどいたみも来ないだろう。
 おそらく何の役にも立たぬ死蔵されるだけの絵に、これほど執着するのかわからなかったが、とにかく金銀をふんだんに使い板返しの天地は錦織にしようと決めていた。

 浩司は使いに外へ出たついでに、足をのばして川まで行った。
 随分長いこと、外の空気を吸っていない。
 半里ばかりの道中ながら、急ぎ足だったせいか汗ばんだ。
 といって、急ぐ必要があったわけではなく、羽織を脱いで、川っぷちに立って、下を見おろした。
 土手の急な斜面に子供等が取り付いて、草を摘んでいた。つくしでも採っているのだろう。
 向う岸の上にも下にも、大勢の人足達が往来しているのが、遠くに望めた。
 河川敷に一つ分だけ橋脚ができあがって、途中まで橋桁が伸びている。
 ダグラスさんの話によると、水の中は、ケイソン潜函という箱囲いを作り、排水して工事するのだというが、どういう理屈なのかさっぱりわからない。
 赤レンガが規則正しく積み上げられた橋脚の、目地の白セメントが遠目にもまぶしかった。
 向う岸の木々の間に、寺の大屋根が見える。良念さんはどうしているだろう。
 もう少しの辛抱だ。橋ができれば町まですぐだ。安全自転車なら、もっと速い。
 今更泣き言を言っても始まるまいが、在所には話ができる朋輩もなく、うさ晴らしができる場所もない。
 村の衆は、夕刻になると酒屋の店先に腰をかけて酒をくみかわしたり、往来にまではみ出して立ったまま世話ばなしに興じるのが常だったが、八年も村を離れていた浩司には、仲間に入るのもはばかられ、町の生活に慣れた身なれば、おもしろいはずもなかった。
 浩司は村を子供で出ていって、大人になって帰ってきたのだった。
 浩司は着物の裾をからげて、走って帰った。

 かくれ屏風の彩色は終わった。
 板返しする時、どうしてもすれるので、金箔、銀箔をそのまま使えないので、切り箔にして散らした。白金の上弦の月も、いつか黒い月に変わるだろう。
 草花図と絵物語の紙を突き合わせて並べる。 芯にする中板の厚紙と中帯にはる順番を、まちがえないように何度も確かめた。
 ここへ来て、こういう小さい物は板返しを先に作ってから絵を入れたほうが楽かもしれなかったと後悔した。
 今度やるときはそうしよう。もっとも、こんな物を作ることは二度となかろう。
 表紙のまわりも、上下の支え帯と同じ錦で額縁をつけた。
 糊がすっかり乾くのを待って、浩司はパタパタと板返しを振った。
 草花図が一瞬にして、両面きらびやかな絵物語に変わった。
 男女のまぐわう枕元の衝立に粟粒ほどの大きさの文字で「竹取り物語」の一節をしたため、その中に自分の名前をまぎれ込ました。
 たとい、どんなたぐいのあぶな絵であっても、絵師は必ずかくし落款をほどこさずにはおれぬものなのだ。
 浩司は、ずっとそんないじましい真似は絶対すまいと思っていたが、今になって自分も同じことをしていた。
 そして、それでいいと思うのだった。

 此の世の人は、男は女にあふことをす、
 女は男にあふ事をす
 その後なむ門 浩洋(広)くもなり侍る

 どんなつまらぬ仕事にも、描いた絵には意地がある。
 男女の交合の枕元に落款を隠すというのも、あさましいことだったが、一方で落款を押すと区切りがつく。
 どんなできばえだろうと、早々に引き渡さねばならない。しょせん、賃仕事なのだ。
 かくれ屏風は帛紗に包んで、違い棚の上に置いた。
 浩司は勢いをつけて、障子をあけた。
 ずっと画室にこもって細かい仕事をしたためか、庭を見ると何もかもが大きく感じられる。実際、春になって草木も伸びたのだが、自分が小さく縮んでしまったかのような錯覚に陥った。
 急に立ち上がったものだから、幻暈がして外の光がまぶしく、立ちくらんだ。
 中廊下をふらふらと母屋へ行った。
 御当主が冊子片手に将棋盤におおいかぶさるようにして、口の中でぶつぶつと何事かつぶやいている。
 浩司は後からのぞいて、思わずもらした。
「雪隠詰めか……」
「おお、コウーさん。一局やらんか」
「いやあ、やっと終わったところで。
 ややこしいことは当分、放免に願いますよ」
 浩司は縁先で足をなげ出し、 庭に目を移した。 うしろでパチパチと駒を置く音がした。
「あとでちょっと離れへ寄せてもらうよ
 これで準備は全部そろった。
 よしと…」
 御当主はジャラジャラと盤面をくずした。

 御当主はかくれ屏風を何度もひっくり返していた。
「いやあ、さすが。
 子供の時分に縁日で見たもんだが、どういう仕掛けになっているのか、さっぱりわからん」
「そんなところで、よろしいでしょうか」
「いやいや、結構。これで一安心だ。
 ご苦労、ご苦労」
 言いながら、帛紗包みを懐に入れた。
「ひと休みしたら、掛け軸でも描いてもらおうか」
「婚家に持っていくんで」
「ああ、二月(ふたつき)ばかりだが、できるかね。
 まあ、これからは騒々しくなるから、邪魔なことだと思うが、よろしく頼むよ」
「経師屋はどうしましょう」
「呉服屋にでも町まで持って行ってもらうさ。
 誰かしら、行き来しているだろう」
「そうですね」
「ところでコーさん。るいが行ってしまったら、後はここにいてくれんか」
「はあ…」
 浩司は掛け軸といわれたので掛け軸のことを考えていて、 すっとんきょうな声をあげた。
「いろいろ考えはあるだろうが、わし一人になってしまう。寺の普請もあるし、村にいてくれよ」
「寺は順調にいってますか」
「幕末に焼けたのが痛かったよ。うかうかしているうちに、廃仏棄釈さわぎだ。
 しかし、何とか再建のめどが立って、やれやれだよ。
 るいを嫁にやって、寺ができれば、いつお迎えがきてもいい」
「何をおっしゃる」
「奥のとび地に家を建てればいいじゃないか。
 あすこは前々からお前さんにやろうと思っていた地所だ。なあ、村にいてくれよ。
 うちのバカ息子は、いつ帰ってくるかわからんし、あてにはできん。演歌師のあとをくっついて手風琴をならしておるらしい。
 困ったもんだ。まったく。近頃の若いもんときたら、好き勝手ばかりしおって」
「すみません」
「いや、コーさんのことじゃない」
 御当主は、頭をかきかき出て行った。
 浩司は、背を丸めた老人の後ろ姿を見送って、やれやれと声に出して言った。
 そのうち寺の仕事もくる。これで、二、三年は食いつなげる。一心地ついた気がしていた。
 先の心配がとりあえずなくなって、晴々しい気分で、掛け物の構想に入った。
 やはり嫁入り時期の初夏の風景がいいだろう。パステルであれこれ小下絵を描いた。
 パステルは手軽で、本当に具合がいい。
 色合いも初夏の新緑を表わすのにぴったりだった。
 けぶるような新緑は、思い切って骨描きをはずし、色彩だけで描いてみようか。
 師匠が見たらおこるに違いないが、見られる心配はない。邪道は承知の上だが試してみよう。まずかったら描き直せばいいだけのことだ。
 白群(びゃくぐん)の空、白緑(びゃくろく)の木々、さらに胡粉をのせて、かすむ山並みが立ち現れる。
 何度も何度も絵の具をぬり重ね、色だけの世界になった。
 長年、 輪郭線があるのが当り前だと思っていた身には、 何か忘れ物をしているような落ち着かない気分だったが、意外とそれは実際に見えている風景であることに気づいた。
 今まで、目に映るものすべてを骨描き線で囲って見ていたような気がする。
 庭の木々にも、家々のいらかにも、どこにも黒い線はなかった。
 絵から輪郭線がとれてしまうと、目を細めれば、実景までが茫としてくるのだった。

 初夏の山野図ができ、ながめていた浩司だったが、掛け物に仕立てるには何かしっくりしなかった。
 額装にしたほうが、いいかもしれない。額縁に入れるには縦長の変な形だが、天地を少しおとせばいける。
 やはり額装にしよう。絵の寸法を計って、大工の留さんに頼めばすぐにできる。同じ寸法で紅葉の額もつくればいい。
 そう決まると、早速紅葉図にとりかかるのだった。
 紅葉の山々を黄土と辰砂で表わしていく。もっと冴えた透明な黄色がほしい。黄土では枯れすぎている。今ほど、岩絵の具に黄色がないのが腹立たしく思えることはない。
 硫化カドミウム鉱というのがあるそうだが、すぐ手に入るわけでもない。
 無謀なことだと思ったが、パステルを砕いて使ってみようと、指先で押した。パステルは簡単にもろく崩れ、鉢で空摺りするまでもなく、指先をおぼろ月に染めた。
 ニカワを入れても、ほとんど変色はないようだ。時間がたつと、どうなるかわからないが、その時はその時、ままよと筆にふくませた。

 大工に作らせた額に絵を納め、広間に運んでおいた。留さんは指物(さしもの)大工ではないが、まずまずのできだ。
 嫁入り道具はすでに部屋いっぱいに並べられ、床の間は隠れてしまっている。
 長持ちの前に額を立て掛けた。
 御当主が腕組みをして立っていた。
「いよいよですね」
「ああ、早いもんだ。準備でごった返しておって、わしのいる場所がないよ」
 手伝いの女衆二十人ばかりが、入れ替わり立ち替わり行き来して騒々しい。表を替えた畳がいたまぬように上に薄べりを敷いてある所を、楽しそうにすべっていった。
「私も邪魔になるだけだから、しばらく寺の普請でも見てきますよ」
「ああ、男はすることがなくてのお。
 御住職とよく相談してくれ。
 しかし、変わった絵だのお」
「まずかったですか」
「いや、そんなことはない。変わってはいるが、なかなかいい。若い者は掛け物なんかより、このほうがいいかもしれん」
 御当主は言い終わるか終わらぬうちに、せかせかと立ち去ろうとしていた。が、そのわりには実際歩みはゆっくりだった。気ばかりせいても、すべきことは何もないのだった。

 浩司は屋敷を出て、寺へ向った。
 画帳だけを小脇にかかえ、墓地を抜けながら、ちらと両親の墓の方角に目を移したが、今さら信心深い素振りをしてもはじまるまいと、そのまま通り過ぎた。
 木立の間から、寺の伽藍(がらん)がのぞいた。
 直垂(ひたたれ)袴姿の親方が、助職人や徒弟達に采配をふるっている。侍烏帽子(さむらいえぼし)をいただいて太刀を帯びている姿は、さすが家大工とはちがう。
 上の者も下の者も、身なりがきちんと気持ちがいい。
 住職一家は仮住まい中とはいえ、宿坊には浩司一人くらいいる場所はあるだろう。しばらく通うことにしよう。
 屋根瓦もふき終え、八分通り完成した本堂を見上げた。本堂が終わっても、伽藍全体が完成するのはだいぶ先のことだ。
 まかないの娘が茶を運んできた。
 庭石に腰かけ、手入れが滞っている境内をぐるりと一わたり見まわしてから、茶碗を飲み干した。
 川へ行ってみよう。
 浩司は勢いをつけて立ち上がった。
 寺の裏を藪こぎをしながら進んで、いつものを往来へ出た。
 橋近くになると、工事も進んでいるとみえて、ぼつぼつ見物人らしき人々が陽気につられて出てきていた。
 堤の上を、赤ん坊を背負った子守奉公の子供が、のんびり歩いている。
 土手を削って、すでに橋まで道がついていた。橋はまだ向う側半分程しかできていないが、橋上から続く対岸にも大通りが開けて、物見高い人々が行き来しているのが望めた。
 道はもうじきつながり、そしてどこまでも続いていくことだろう。
 浩司は、対岸の道が風景に吸い込まれて、見えなくなるまで目で追った。
 世の中はどんどん変わる。向こう岸へ行けば、なんとかなるさ。
 浩司は、はるか彼方の一点に目を凝らした。が、風景はたちまち茫洋として、とりとめのない単彩画に変わった。
 浩司は、くるりときびすを返し、もと来た道を歩き始めた。
 うしろで、人々のざわめきが聞こえたが、歩調を速め、ふり返らなかった。

第三部につづく

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