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 す ず め

下之町英雄 作 (無断転載を禁じます) 

 遅番の勤務が終わるまで、まだ1時間ほど残っていたが、出社前からの頭痛が激しくなり帰宅を急ぐ帰り道だった。近道をしようとラブホテルが並ぶ路地を歩いていたとき、少し先を歩く二人ずれの男女が気にかかった。
 まさか、と思いながらも私は歩調をゆるめ、二人と距離を保ちながら電車道までつけていった。二人は電停で軽く会釈をすると、男は電停の向かいのパチンコ屋に入っていった。
 私は男の姿が消えるのを確かめ電停へ向かった。そこに立っていたのは妻の明美だった。やはりあの男は大野だったのか、たしか今日は早番だった。4週に一度奴とは同じ勤番になる。退社のときは一緒に酒も飲むし、家にだって立ち寄ったこともある。そんな奴と……。
 私は熱からくるふるえを我慢しながら妻の顔を見つめた。妻は足元を見つめたまま電車が来るまで私と目を合わせることはなかった。電車に乗るとき初めて私を見たが、それは他人に乗車をすすめる眼差しだった。

 電車を降り、家にたどりつくまで私たちは終始無言であった。その間の云い知れぬ屈辱感は私の思考のすべてを遮断していたのだろう、家のドアを開けたときはじめて言葉を発した。
「ただいま」
「おかえり」
 娘が笑顔で迎えてくれた。妻はそのまま娘と一緒に台所に向かい、私は寝室に行き横になった。しばらくして娘が薬と水をのせたお盆をもって入ってきた。
「お母さんがご飯どうしますか って?」
 私がいらないと答えると、娘は私の枕元に座り若いタレントの話を得意げにしゃべり始めた。娘の気遣いだからとしばらく聞き流していたが、堪えられなくなって静かにしてくれるようたのんだ。娘は他にいるものはないかと尋ねたが、私が目をつむったまま首を横に振ると電気を消し、部屋を出ていった。

 そのまま寝入ったのだろう。襖の開く気配で目がさめた。廊下の薄明かりを背にした人影が入ってくると、となりの布団に静かにもぐり込んだ。
 私はしばらく言葉を選んでいたが、
「停留所からの沈黙は認めると云うことだな」
 返事は帰ってこない。
 再び、断定的に同じ言葉を繰り返したが返事はなかった。
「あきれて言葉もない……。おれたちはもう40も過ぎて、ひたすら父親と母親を演じているんじゃなかったのか。少なくともおれは、おまえ達のために、この家庭を守り、築いてきた……。絶対に嫉妬なんかじゃない。おれにも生活のフリーハンドが欲しいときもあった。心迷うこともあった。しかし、おまえがいて、娘がいて、家庭がある。そんな有象無象の中で、それらを破綻させるようなことは謹んできたつもりだ。それは暗黙の了解として家族3人が共有しているものだと今日まで疑いもしなかった。それが……、その裏切りが絶対に許せない……。おれだけじゃない、おまえが母親を放棄して、娘まで裏切ったことはもっと許せない。おまえは人間じゃない」

 妻は布団から上体を起こすと、
「違います……、私は人間です……。人間だからこそ人を愛せるんです……」
 妻の言葉を遮るように私は布団をはね上げ、熱のある身体を起こして云った、
「愛? おまえは自分の歳がわかっているのか」
「それに、愛せると云うのは大野のことか。奴にも妻子があるんだぞ。おまえ達はそんな道理が通ると思っているのか」
「道理と違います……、愛なんです。大野さんは私を人として接してくださいます。そして女として愛してくださいます。あなたは私をローン返済のパートナー、ただの家政婦としてしか見ていません。それでもあなたの云う、娘のため、家庭のため、自分自身を偽り続けてきました。でも、今日電車の中ではっきりと気づきました。愛されても、愛してもいない私自身に……。母親であっても、その前に一人の人間であり、女であることに……。もう一度そんな自分を大切にしたいと……」
「もういい。明子の、娘のことを考えたことはないのか。娘に恥ずかしくないのか」
「明子は私の娘です。きっとわかってくれます。明子は私が育てます」
 "娘を育てる"という言葉が私の憤りを自制を超えた憎悪に代えた。いや、その言葉は自身でさえ認めることができず、閉じ込めたままの私の嫉妬に、向かうべき方向と癒しへの契機を与えたのかも知れない。
「何を云うか。お前にそんな資格があるのか…」

 気がつくと私は妻の布団に馬乗りになり、右手に血まみれのスタンドを握りしめていた。妻のこめかみからは鮮血が激しく吹き出している。
 (しまった)
 (……………)
 (救急車)
 スタンドを投げ捨て、玄関の電話に飛びつくとダイヤルを回した。
 男の声がした。
 その機械的な声は私に私の現実を理解させた。言葉を選ぶわずか数秒の沈黙はこのあとの私の選択を直感するのに充分な時間であった。私は受話器をはなすと静かに置いた。

 寝室の前まで戻ると襖は開いたままだった。廊下から中の気配をうかがい、小さな声で妻の名前を呼んだ。返事はなく、妻の頭部のあたりの黒いぬめりが微かな光を反射していた。
 どのくらい時間がたったのだろう。私はキッチンのテーブルを前に腰掛け、ウィスキーを飲んでいる。グラスに3杯も飲んだか。酔いは回らない。繰り返し同じことを考えている。
「娘をどうする。娘を置いては死ねない」
「娘には娘の人生がある」
「小さな娘にこの現実と世間はむごすぎる」
 私は意を決して階上の娘の部屋に向かった。娘は胸の上で手を組み、あどけなく眠っていた。

 階下へ降りた私は、またキッチンで酒を飲んでいる。
 あれから、どのくらい経ったのだろう。時間の感覚だけが麻痺したようで、意識はますます尖っていく。

 玄関に人の気配がする
「誰だっ」
 気のせいか
 いや 人がくる
 それも 複数だ
 ドアが開いた

「ただいま」

 まさか……
 妻と娘がキッチンに入ってきた。妻の両手には、半透明の袋が幾つかぶら下がっている。
 座っている私に近づくと、その中の一つを私の鼻先に突き出した。その袋に目を凝らすと、中には血にまみれた赤い塊が見えた。
 狼狽した私はとっさに思った。殺したのは妻ではなかったのか、私はいったい誰を殺ったのか、娘も殺めてはいなかったのか。

 妻と娘が生きていてくれたことに安堵した私だったが、肉塊をぶら下げたまま立ち尽くす妻が気味悪く、後ずさりしながら袋を指さして叫んだ。
「いったい誰だ。それは」
「何を云ってるんですか、お父さんの好物ですよ」
「ええっ」
 いぶかる私に、
「明太子ですよ。明太子がお気に召さないのだったら二人で食べてしまいますよ。明子ちゃん、お父さんの分も食べちゃいましょ」
「変なお父さんねぇ」
「アハハハ……」
 二人は何の屈託もなく笑っている。
 私はこの情景が理解できないまま、二人を促した。
「私はいいから、早く食べてしまいなさい」

 二人は食事を始めた。しつこく私にも勧めるのだが、私は食事どころではなかった。
 私はいったい誰を殺したのか。誰も殺してはいないのか。
 熱と風邪薬による幻覚だったのだろうか。
 二人は、私の異様な体験などおかまいないしに、無駄口をたたきながら食事をしている。まるで餌をついばむ雀のように。
 二人のあきれるほどの食欲を目の当たりにして、やはりあれは幻覚だったことを確信した。

「静かにしろ」
 扉の向こうで男の声がした。
「すみません、妻と娘が食事をしているんです」
 振り返り、扉に向かって答えた。
 扉の覗き窓が開いて、男の目が房の中をなめ回わすと、私の後、鉄格子のはまった窓のあたりで動きを止めた。
 私は男に気兼ねして二人をせかした。
「食事が終わったらさっさと帰るように、長居してはご迷惑だから」
 男は私の言葉を遮るように。
「わかった。もういい、食事が終わったらきれいに片づけるように」
 そう言い残すと覗き窓を閉め、乾いた靴音とともに去っていった。

 ようやく食事もおわり二人は帰った。
 私は立ち上がり、小さな窓の桟に散らかった二人の食べ残しをかたずけると、独房の小さな机に向かい、二人に宛てた手紙をまた書き始める。
 薄暗い壁に開いたわずかな青空から、若葉のそよぐ気配、そしておしゃべり母子(おやこ)の元気なさえずりが聞こえてくる。

おわり

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