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吾輩は猫であった

下之町英雄 作 (無断転載を禁じます) 

 吾輩は猫であった、今朝起きるまでは。
 昨夜、主人の布団にもぐり込み、主人の足の臭いに閉口しながらも寝入るまでは確かに猫であった。夜中に主人のおならで起こされたがそのときも猫であった。
 明け方、少し寒気がして気づいたのだが、吾輩の体毛の大方がなくなり、頭部と局所に痕跡をとどめるだけの醜い姿であった。吾輩は恐怖と絶望でこの事態を理解できず、布団の中を吾輩の体を求めてやみくもに探し続けた。しかし吾輩は見つからなかった。
 探し疲れて布団の中で天井を見つめているときひらめいた。吾輩と主人が入れ変わったことを。その根拠は吾輩がいない。いや吾輩だった猫がいない。それに障子が10センチ程開いている。決定的なのは今、隣のほうから吾輩の声によく似た鳴き声が聞こえてくることだ。隣には "みーちゃん" と云う、キュートでちょっとセクシーな小猫ちゃんがいる。多分彼女にちょっかいをだしにいったに違いない。

 ここでちょっと主人の紹介をしておこう
 某私立高校三年 ブームのサッカー部に籍を置いたが三日で退部
 趣味 マンガ(ROM)
 成績 悪い
 特技 なし
 品性 最低
 性格 お調子もの 以上

 とにかく主人を連れ戻さねばと、裸では寒いので服なる物をまとい庭先に飛び出し、隣の庭を覗いたが猫一匹いない。隣の庭のあちこちを探していると、隣の家の中から "みーちゃん" と吾輩の声が聞こえてくる。
(あの馬鹿 もう上がり込んでしまっている)
(吾輩でも "みーちゃん" とのデートは庭先でしかしないのに)
 いつものように垣根をくぐり抜けようとしゃがみ込んだが頭が入らない。やっさもっさしているうちに "みーちゃん" が庭先に降りてきた。「おはよう」と云ったつもりが "みーちゃん" にはさっぱり通じない。不思議そうな顔で吾輩を見るだけだ。このいきさつを説明したいのだが通じない。イライラしながら主人の出てくるのを待っていたが一向に出てくる気配がない。そこで吾輩は表から回ることにした。

 ピーンポーン
「はい 妹小路です」
 隣の奥さんの声だ。年配の上品な奥さんで "みーちゃん" とのデートのときなど吾輩の食事まで用意してくれる。よく気の付く人だ。それに比べて吾輩の主人ときたら、夜中に吾輩のジャーキーまでつまみ食いして、なおかつ吾輩に濡れ衣を着せる。まったく低級な人間だ。
「おはようございます 隣の潮(うしお)です」
 ああ 情けない なぜ主人なんかの名を……
「吾輩の… ゴホン ゴホン」
「うちの ワガハイ おじゃましてませんか」
「ワガハイちゃんならいらしてますよ。おはいりください」
「失礼します」
 主人じゃ こんな会話もできないだろうと思いながらダイニングの方へ向かった。

「ここよ」
 この家の一人娘で、OLの美佐子さんが朝食のテーブルを前に腰掛け、テーブルの下を指さしている。吾輩は美佐子さんのテーブルの下をのぞき込んだ。
 美佐子さんの膝の上で吾輩が、いや主人が喉を鳴らし、美佐子さんの局所付近に顔をうずめ丸まっている。
「今日は珍しく上がって来て、私にまといついて離れないの。出勤の用意もあるし、丁度良かった、潮ちゃん つれて帰ってあげて」
 吾輩は主人の首筋をつかんでつまみ上げた。主人は驚いて手足をバタつかせ空をかきむしっている。
「潮ちゃん、余り乱暴にしないでね」
「はい」 と応え、頭をナデナデしながら部屋を出た。玄関に "みーちゃん" が座っていたが、主人の方を目で追うばかりで吾輩のウィンクは無視された。癪だから "みーちゃん" の前で主人の髭を一本抜いてやった。

 主人の部屋に一緒に戻り、部屋の真ん中で対面しながら、これからのことを相談しようとしたが、主人は毛づくろいをしたり、あくびをするだけで、真剣に悩んでいる様子ではなかった。吾輩はこんな奴を相手にするのが馬鹿らしくなって、とりあえず学校へ行ってやらねばと用意を済ませると家を出た。
 バス停でバスを待っていると腹が鳴った。そういえば朝からバタバタしていて朝食をとっていないことに気づいた。カバンを鼻先に押しあて臭いをかぐと、おかかと醤油のいい臭いがする。満足のいく気分で列に並んでいると、バス停の屋根に数羽の雀が舞い降りた。吾輩はしばらく雀を目で追っていたが、ふと気がつくとバス待ちの人の視線が吾輩に集中していることに気づいた。訳のわからないまま立ち尽くしていると、列の中の男が叫んだ。
「馬鹿! 早く屋根から降りろ」

 屋根づたいに戻ったわが輩は遅い朝食を済ませると、縁側で日向ぼっこをしながら "みーちゃん" の出てくるのを待っていた。気持ちが落ち着いてくるほどに、今朝自分で抜いてしまったヒゲあとが痛みだし、ちょっとブルーな気分でバス停の不快な事件を思い起こしている。
「イヤー、朝からいやなものを目にさせられましたね。いくら猫だからといって、頭上で殺生とはセッショウではありませんか……
ワハハ それに加えて…… 」
 朗々と列の中の男はしゃべり続けた。軒の影で聞いていた吾輩も聞き続けることが恥ずかしく、早々とわが家に引き上げた。

 人間は直接自らの手を煩わせずに生物を食する。だけでなく今朝のように、さも自身はその埒(らち)外にあるような、横柄な態度をとるのだ。そのくせ飽食の限りを尽くし、その矛盾に気づくこともない。
 勝手に、生きるものすべてを啓示されたごとくに序列化し、自らはそのヒエラルキーの頂点に立たねば治まらぬ、うぬぼれ屋ばかりなのだ。その論理もその頂点に至るための恣意的な条件の積み重ねであり、ひどい場合は条件そのものが充足されないまま用意した結論へと導く。これなどは真理への冒涜以外のなにものでもない。
 心底とは裏腹に過剰な言辞を弄し。そのかたわらにエスタブリシュな権威を添えることは忘れない存在。常に卑小な共同体とその掟を都合よく想定し、卑小にすぎぬ個的差異をあげつらい、まつろはぬ神々を排除することでしか求心の手だてをもてぬ存在。鵜呑みの知識と言葉を持て余し、むなしく吐き出す未消化のそれを悦び分かち合う存在。それは人間社会の宿命、人間達の性(さが)なのだろうか。
 吾輩は猫である。かかる排他的、独善的人間達となれ合うつもりはないし、ましてや犬族のごとく人間にこびるほど破廉恥でもない。たとえ給餌者と云えど猫族の孤高なる尊厳を捨ててまでおもねるつもりはない。吾輩にも暴力に抗する権利、すなわち生物として滔々と循環するものにのみ従う権利を有することをここに・・・?
おや??
 垣根越しにピンクのリボンが見えた ??みーちゃんだ??
 猫族の心理とは純粋明瞭なもので、吾輩のブルーな気分はたちまち "みーちゃん" のリボン色に染まった。
「やぁー」
「今朝は大変だったわね」
「まあね、ちょっとはあわてたけど・・・
 でも、人間なんてものになるもんじゃないよ
 横柄な人間がいてさ・・・、教えてくれたんだ」
「教えてくれたって? 何を??]
 吾輩はおもむろに髭を一撫でして云った。
「ヘヘ "吾輩は猫である" ってね」

おわり

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