Stand by Me に投票する

Stand by Me

下之町英雄 作 (無断転載を禁じます) 

 1970年 2月 千葉 二十歳
 その日はバイト先の給料日だった、まっすぐ下宿に戻る気にならず、栄町の居酒屋で安酒を飲んでの帰りだった。
川沿いの暗がりで用を足していた時、
「お兄さん もうお帰り」
 背後の闇の中から声がした。そのまま振り返ると、すぐ後ろに女の影があった。
「どうぞ 続けてちょうだい」
 女の影は応えた。正面に向き直ると、酔った頭に尋ねた。
 何んだ こいつは
 やばくはないか
 でも 女を知るのも
 金はある
 いくら位するんだ
 五千までなら いいか
 考えがまとまると、ゆっくりチャックを引き上げ、振り向きざま、
「おれ 持ち合わせはないよ」
と、ぶっきらぼうに答えた。
「千円もあればいいのよ 安いお店だから」と女は応じた。
 てっきり街娼だと思っていたのだが、ホステスの客引きだったのだ。

 しかし、こんな暗がりにホステスがいるのも不自然なことではあった。でも、生まれて初めての女性からの誘いで、舞い上がっていたのだろう、二三言葉を交わした後、彼女に腕を取られるまま川端を離れ、今来た道を歩きだした。
 ネオン街をしばらく歩いていると、すれ違う酔客がぼくたちを横目で見ながら、意味有りげな笑みを投げかけ通り過ぎる。余りに露骨な男に腹がたち、振り返り目線を離さずにいると、彼女はぼくと男の間に立ち、軽く男に会釈をして、ぼくの腕を持ち替え、そのまま歩き始めた。
「放っておきなさい」
 彼女は諭すように云った。

 店の前まで来たのか彼女は立ち止まり、ぼくの腕を離すと、スナックとスナックの間にある狭い階段を指さした。
「ここよ」
 彼女に背中を押されるまま、階段を上りとつめると、そこは狭い踊り場で、両側に店のドアがあり、正面の小さなドアにはWCと刻まれた札が張ってある。左側のドアからは大きな嬌声がもれてきて、ぼくは振り返り彼女の案内を待った。
 彼女は左のドアを開けると、ぼくを抱きすくめるようにして中に入った。そのとき、ぼくよりも背の高い女性であることに気づいた。

「ママ、お客様ですよ」と云うなり、ぼくをママにあずけるとカウンターの方に去って行った。入れ代わったママがぼくを隅のボックス席まで案内すると、彼女も今いた席に戻って行った
 ママと呼ばれる人は和服で彼女も長身のようだ。案内された席に着いたとき、この店の醸し出す雰囲気が普通のバーとは違う感じがした。静かに頭を巡らし店の中を見渡した。 一巡した頭を戻そうとしたとき、最後の席の客と目が合った。年輩のサラリーマンだったが、
「若僧がこんな処に出入りをするな」
と云いたげな目で、ぼくを見すえている。そのときトレーを持った彼女が又視線の間に割って入った。
「ゆうこです」と名乗りながらぼくの隣につくと、
「あなたは目がいいのね、男の人ばかりと目を合わせて、楽しい?」
彼女はビールを注ぎながら云った。

 学生かと尋ねられ、ぼくはそうだったと答えた。今は京成駅前のジャルダンと云う喫茶店でカウンターをしていること、もう授業には戻れないことなどを話した。
「駅前で演説していた人達のお仲間?」
 仲間と云えば仲間かも知れないが。でも、マイクを持って唱えるほど素直に納得している訳でもないと応えた。
「どれも同じよ、親不孝よ。でも私よりはましかしら」
 言葉の意味が解らず、尋ねるように彼女の顔をのぞき込んだ。
「解らない? 私 お・か・ま」
 そんな感じもしないではなかったが、こうストレートに云われると次の言葉はなかった。
「おかまはお嫌い?」
 応えようもなく、しばらく彼女の顔を見ながら、ただ笑っていた。彼女も笑いながらぼくの答を待っている。ぼくは考えながら、断片的に話しはじめた。
 ぼくの日常には、あなたのような人はいなかった。好きとか、嫌いとか、考える必要もなかった。彼女は笑みを絶やすことなく、その答の一つ一つにうなずいている。
「それじゃ 今考えてみたら」
 ぼくは彼女を見つめ直した。彼女はふざけたしぐさで背筋を延ばし、斜めに座り直すと、顎のあたりに指を添えてぼくを見つめている。わざとらしく可愛げな瞬きをしながら。
 少し栗色かかった髪の毛、丸顔で眼は大きく丸く、それをより強調するアイライン。眼を除けば小造りな顔の造作。小さく盛り上がった胸を締め付ける、肩のない黒のドレス。特に優し気な眼が輝いて見えるときの表情が印象的だった。
「女性とすれば 好きなタイプだけど」
「女性とすればは余計だけど でも ありがとう」
 彼女は腕を伸ばし、ぼくの手を包むように優しく握ると続けて云った。
「男であれ女であれ、ひかれると云うことは偶然ではないと、私は思うの。うまく云えないけど。きっとお互いに何かを見つけて…… たとえば、あなたが私の中にマリアを見つけたとするでしょ。違う? 違っていてももいいの、そのとき私はあなたのマリアになってしまっているのよ。それは、好きとか嫌いとかでなく……」

 彼女が手にした瓶とぼくの空のグラスを見比べ、小首をかしげている。
「もう、いいよ。ここに来るまで大分飲んだから。チェックしてくれる」
「もうお帰り? 何処まで? もう電車はないみたいよ」
「南千葉まで歩いて、それから学校か友人の下宿にでも泊まろうと思うんだ」
「わかったわ、チェックを済ましたらそこまで送るから、あそこで待っていて」
と云って、入口のドアを指さした。
 ドアの前で待っていると、カウンターの前でママと二言三言話した後、毛皮のコートを羽織りながら彼女が来た。
「おまたせ」
 彼女に続いて階段を降りると、今来たネオン街を駅の方へ並んで歩きはじめた。

「これから、又あそこに立つの?」
「今日はもう帰ろうかと思って、よかったら泊まってもいいわよ」
 一瞬言葉につまった。頭の中が凍り付いて、泊まると云うことは? SEX、おかま、お金、ヒモ、そんな言葉だけが頭の中を駆け抜けた。返事をせず、彼女の顔を見た。笑顔でぼくを見ている。その笑顔から眼をそらし、正面に向き直ると、カラカラに乾いた口からやっと絞りだした。
「ほんとにいいのかな」

 ぼくたちは道端に止まっている客待ちのタクシーに乗り込んだ。
「緑町、公園の入口まで」彼女が云った。
 運転手の返事がないまま、車は動きだした。しばらく走り、国鉄のガードをくぐると 県営公園の外周道路に出る。その東端の公園の入口で車は止まった。
 タクシーを降りると広い道路の向こうには木造で平屋の家屋が幾重にも並んでいる。窓の灯はまばらで、屋根の上の凍てついた空に星が冷たく瞬いていた。彼女は道路の向こうを指さすと一人渡りはじめた。ぼくは黙って彼女のあとに続いた。

 彼女はバッグから鍵を取り出しガラス戸の施錠を解いた。先に中に入ると灯をつけ、振り返ると手振りで中に入るよう促した。そしてぼくが入るとすぐに施錠した。
「習慣なの、おかま一人じゃ不用心でしょ」
 玄関を上るとすぐに四畳半の部屋で、襖で仕切られているが、隣にもう一部屋ありそうだ。恐らく彼女の寝室なのだろう。部屋の中はきれいに片づいていて、調度も女性のものばかりだった。真ん中に電気こたつがあり、その前に正座して彼女を待った。

「そこの、みかんでも食べていて」
 台所から彼女が云った。徐々に慣れてきたのか、もし親しい女友達がいればこんな感覚で接するのかと思え、おかまを意識する部分が薄れてくるような気がした。

 彼女がポットを抱いて入ってきた。ぼくの横に座るとお茶を入れてくれて、湯呑みをぼくの前に置いた。熱い茶をすすりながら、何か話さなければと話題を考えていると、
「彼女はいないの」と突然尋ねられた。
 思いつくままに、去年北海道旅行したときに出会った、唯一の恋らしき体験を話した。
「それで、何処まで? A? B?」
答えはBだが、でも今あなたとここで話題にしたくない、あなたにも、彼女にも済まないと思うからと応えた。
「そう、まじめなのね。でも、そんなところが可愛いい」
と云うなり、人差し指を自分の唇に触れ、そしてぼくの唇に触れた。ぼくはどぎまぎしながら、あわてて、あなたにも恋人はいないのかと尋ねた。
「いることはいるの。でも……」
「その人は、男性? 女性?」
「男よ、でも出張中」
 一瞬、ぼくの表情が怯(ひる)んだのだろう、彼女はあわてて
「近くにいるんだけど、来年の秋までは絶対戻れないの…… 解るでしょう」
 ぼくはうなずいてみたものの、すぐには言葉の意味がわからなかった。

 話題も尽きてきた頃、彼女が隣室に寝る用意があると云った。
「朝はここからバイトへ行く?」
「いや、一度戻ります始発で、目覚ましありますか」
「わかったわ、起こして上げる」
と云って、となりの襖をあけた。
 六畳ぐらいの広さで、壁ぎわにはドレッサーやタンスが並んでいる。部屋の真ん中には大きめの布団が敷いてあった。ぼくは部屋の隅で下着になり、急いで布団に潜り込んだ。
 布団にも、枕にも女の臭いがする。布団は冷たくて火照った体にいい具合だった。彼女は入って来るのだろうか。隣室で寝るのだろうか。来なければ、となりにある枕を抱いて 一人寝るだけだ。隣室では、まだ彼女の動く気配がする。

 着物のすれる音が止み、吊り電灯の紐を引く音が二度聞こえた。襖のあく音、閉まる音がして、布団の中に冷気が入ってきた。確かに、ぼくのすぐ横に彼女がいる。長い沈黙が続いたような気がする。彼女が寝返り打つようにしてこちらを向いた。ぼくの腿に彼女の腿が僅かに触れた。ぼくの神経はその一点に集中する。彼女の足の触れる部分が少しずつ広がってくる。彼女の息づかいが耳のすぐ傍で聞こえる。ぼくは首だけをねじって、彼女の方に向いた。唇が触れた。彼女の粘膜が口中に広がり、そのボリュームと巧みな動きに圧倒されながらも、別人のような彼女の表情が見たくて、ぼくは薄く目を開けていた。

 ぼくの高まりがピークに達したとき、ぼくは既に彼女の上にいた。が、やはりまだ躊躇するものがあったのだろう。最後のこだわりを払拭するためだろうか。
「君はものを考えるとき、男言葉で考えるの、それとも女言葉」と尋ねた。
 彼女は突然の言葉に驚き、大きな目を開いて瞬きもせず、ぼくを見上げている。その目は 「信じられない」 と云っていた。

 ぼくを見ていた彼女の目はやがて、天井の小さな灯に焦点を合わし、暫くして虚ろな声で答えた。
「男言葉よ」

 ぼくは静かに彼女から離れると、仰向きになって天井の灯をおぼろに見つめながら、彼女を傷つけたことを悔いた。そして布団の中の彼女の手を探りあてると、握りしめて失言を詫びた。彼女はぼくの手を握り換えして応えた。

 しばらく互いに爪を撫であいながら、ぼくは浅いまどろみの中にいた。
「もう少しで、始発の時間よ」
 彼女は握っていた手をそっとぼくの胸に戻すと、ガウンを羽織り隣室へたった。

 着衣をつけ、隣室へ出るとコーヒを入れてくれていた。正座してコーヒーを飲みながら 、いいあぐねていたことを一気に云った。
「又、失礼なことを云うようだけど、いくら置いて行けばいいだろう」
 彼女は腕を組むしぐさをすると、
「そうねぇ、未遂だからとれないわね。あなたがほんとの男になったら、あなたを頂こうかしら。
 でも、恋なんて肌と肌でするものよ。あなたみたいに頭で恋する人って、これからたいへんよ。中ピ連とか何とか。あなたの語る恋を聞いて上げられるのは、おかまだけだと思うは。
 それに、おかまに『さん』はいらないのよ。男にも、女にもつけないでしょ、おかまはおかまよ。
 あなたも今日わかったでしょ、男と女だけが性でないこと。でも今のあなたは不器用だから女しか見えていないけど。
 そのうち、あなたにもわかると思うの、この世の中自分に見えないだけで、本当はたくさん存在するものがあるってこと。女やおかま以外にもね」
 彼女は手にしていたコーヒーを飲み干すと続けて、
「一つ聞いてもいいかしら。もしあのとき、女言葉で考えていると云ったら、あなたは私を抱けたの?」
 ぼくは彼女を見ずに答えた。
「抱いた」

 コーヒーを飲み終ると礼を云って玄関を出た。まだ明け切らない藍色の天空に星が一つ凛(りん)と輝いている。ぼくはその場に立ち止まると、尋ねるように星を仰いだ。そのとき優しい声が響いて、ぼくの背中を暖かく包んだ。
 振り返ると、ガラス戸に彼女の影が映っている。
「さよなら」
 小さな声で応えると、また優しい声が返ってきた。
「頑張ってね タコ」

おわり

先頭へ戻る