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 袋 小 路

下之町英雄 作 (無断転載を禁じます) 

 人生を迷路にたとえるなら、記憶のひだに閉じこめた哀愁は訪ねる人のない袋小路。そんな袋小路の吹き溜まりなど、誰も振り返るはずはなかった。

 いつもの立ち飲み屋を出た後、何となく「ろくでなし」へ向かうのが億劫で、普段は通り過ごす袋小路に入ってみた。その路地の一番奥に新しいJAZZのスナックができていて、私は見慣れぬ看板に誘われるまま間口の狭い階段を上っていった。
 ドアごしに野太いバスクラの音が漏れてきて、その音に引き寄せられるようにドアを開けた。そこは丸椅子が8席ぐらいの小さな店で、カウンターの向こうでは私ぐらいの年かさの女性が洗い物をしているだけで、ほかには誰もいなかった。
「何にしましょう」
「ビール」
 コースターも敷かず、ビールとグラスがカウンターに並んだ。一口ビールを飲み、店の中を見回すと、カウンターの壁際にレコードジャケットが立てかけられている。
「エリック ドルフィーか」
云うともなしに呟いたとき、
「何か かけましょうか? 竹田さん」
「えっ」
突然、名前を呼ばれた私は驚いてママの顔を見上げた。
 その人は、カウンター越しには決して見せないであろう初(うぶ)な恥じらいを隠そうともせず、自身を指さすと私に尋ねた。
「わたし、わかりますか」
 彼女はそう云ったまま私を見つめている。その瞳の奥には、遠い昔に封じ込めた記憶を呼び覚ます、懐かしく切ない情景があふれていた。
 彼女の眼差しに誘われるまま、瞳に宿るセピア色の風景をぼんやりとたどりはじめたとき、その先にある触れてはならない記憶の闇が自らの存在を誇示するように、追憶に浸る私をあざ笑うかのように、懐かしいその風景を闇に染めた。
 その闇こそが私自身振り返ることを拒み続けてきた私の青春の悔恨であった。私はとっさに目をそらし、目の前の水差しに視線を預けた。その水差しには、昔の笑顔そのままに微笑む彼女の姿があった。

 バイトの帰りに、市内に買い物に来ていた彼女と駅前で偶然出会った。しばらく立ち話をした後、公園に向かい、日が暮れ落ちるまでベンチで話し込んでいた。その当時、私は学部の闘争委員会にいて、彼女も学部は違うが救対で活動していた。
 その頃の私は、自己の意識と闘争の展開との間に矛盾を感じ、闘争を目的化した現状に漠然とした疑念をもちつつ、確信のないまま、提起されるスケジュールを漫然とこなしていた。
 私はうまく表現できない私の漠とした心中をたどたどしい言葉で打ち明けた。紋切り方の批判を予想していた私は、以外にも、うなずきながら耳を傾けてくれる彼女に好感をもって話し続けた。
 一通り話し尽くした私は彼女の言葉を待っていた。うつむいていた彼女は言葉を選びながら、こんな意味のことを云った。
「私も今の運動と私自身との間に溝があるような気がするの。でも、その溝の手前で立ち止まる勇気は私にもないの。今が走り続けている以上、走り続けていないと不安で、でも、溝はますます深くなっていくようで……」
 彼女の話の途中で、ベンチの横の水銀灯に灯がともり、たそがれてくる景色に気付いた。話の腰を折ることを一瞬ためらったが、ある確信をもって、話の続きは歩きながら聞きたいと云った。彼女はうなずいて立ち上がり、その場でスカートを整えると、私たちは並んで歩き始めた。
 公園を横切って、出口にさしかかったときは、あたりは闇に包まれていた。静かに歩道を照らす街灯と、たまに行き交う自動車のヘッドライトだけが、挫折を挫折として自覚できずにいる未熟な二人に、断ち切れた明日を暗示するようなぼんやりした光を投げかけていた。
 国電で二駅の道のりを二人は話続けた。二人は、まるで群れからはぐれた小さな獣のように。帰るべき群れも、休むべきねぐらもないハグレ同士が、その傷を癒し合うように。

 彼女のアパートの前に僕達は立っている。
「うれしかった。解ってくれる人がいて。」
「ぼくも」
 意図せずに会話はさよならに向かおうとしている。慌てて、ぼくは記憶の中の彼女を探した。すぐに、今は解放区になっている本部の応接室で本を読む彼女の姿が浮んだ。
 ロッカーでふさがれた窓のすき間から、数条の夕日が差し込み、ソファーに掛ける彼女に向かって伸びていた。クロスの壁には書きかけの立て看と角材がよりかかっている。マホガニーの円卓にはペンキ、工具類、メットが猥雑に置かれ、その前で一人本を読んでいた。
「君が前に本部の応接室で読んでいた本、よければ貸してくれる?」
「いいですよ。本部の救対に置いてあるの、いつでも取りに来て下さい」

 そう云って別れたが、この数日間、学校は覗かなかった。それは今日が四月二十八日だったからで、恐らく二三日前から四・二八沖縄××闘争に向け、学部闘争委員会では闘争方針、戦術等延々と論議を繰り返しているのだと思うと足は向かなかった。首都圏の大学の多くはバリケードを解かれ、拠点をなくした全共闘は、前衛セクトのヘゲモニー下、都市ゲリラに収斂されようとしていた。我が闘争委もセクト主導の街頭闘争に埋没していった。

 深夜、アパートの鉄製の階段を駆け上る複数の足音がして、私の部屋の前でその足音は止まった。
「日和見主義者、竹田。出てこい。」
「反革命竹田、総括する。開けろ。」
「薬学のローザも弾劾にきたぞ。」
(まさか、彼女が)慌てて、ドアを開けると、手に手にメットをぶら下げた仲間が、ぼくを突き飛ばす勢いで入ってきた。狭い入口で身を横にして、彼らの通り過ぎるの待っていた僕の前に、胸に白い本を抱えた彼女が立っていた。
「どうして、君が?」
 彼女が答える前に、委員長の宮間が割って入った。まだ興奮が醒めない様子で大声でわめき始めた。
「権力を戦滅した我が全学共闘の革命的同志は戦線を三々五々撤退して、本部に再結集する事になっていた訳だ。そしたら、彼女が救対にいて、平林がパクられたことを知らせてくれた。接見はベ平連の奥谷さんが行ってくれるそうだが。それで、今日の闘争の総括を反革命の糾弾を兼ねて、お前の下宿でやろうと云うことになって、そしたら、彼女がついてきた訳だ」
 彼らの衣服にこびり着いた催涙薬の鼻をつく臭いの中で、車座になって話し始めた。総括と云うよりも彼らの武勇伝ばかりで、酒も底を着いてくると近くの連中はぽつぽつ帰り始めた。彼女とメンバー三人が残ったが、彼女を除いて三人は始発まで居座る気配だった。

 宮間は胸ポケットからゴールデンバットを取り出すとその一本をくわえた。煙草の先はねじられて、尖っている。一見してグラスだと解った。目を細目、マッチを顔に近づけると、尖った先は赤く燃え一瞬にして灰となった。彼は親指と人差し指を丸め、その丸めた指に煙草を持ちかえると二度ほど深く吸い込んだ。三分の一ほどが灰になったスカスカの煙草を隣の彼女にさしだした。
「私、吸えないの」
 彼女は両手で壁を作り、拒んだ。
「ホワイトキックだな。これは儀式なんだ。これで我々の連帯を強化する訳だ」
「さぁ早く、口に含むだけでいいんだ。でも、すぐに吐き出さないように」
 彼女をかばわなければと思いながらも、この場で自分の気持ちを大衆化することを躊躇していた。彼女が尋ねるように僕を見た時、僕はしかたなくうなずいていた。

「竹田、ピンクフロイド」
「自分で掛けろ」
(早く帰れ!)と心の中で叫んだが、ぼくの気持ちを見透かされそうで、結局云えなかった。

 何周か煙草が回った後、宮間は空になった煙草の包をひねり潰した。メンバー三人は闘争の余韻からか、益々ハイになっていた。それにひきかえ僕と彼女はこの状況の中で自らを抑制し過ぎたのだろう、際限のない深淵に落ち込んでいた。僕は窓際にうつ伏せになって、繰り返しおそってくる虚無感、劣等感に堪えていた。彼女も部屋の対角の隅で、壁を背にし、くの字に身体を折曲げ堪えていた。誰かが立ち上がる気配がして、部屋の灯が消えた。

「止めて」
「………」
「止めて」
「………」
 それは地獄からの声だった。ただ裁きから逃れるだけの、逃げる力を奪われた、許しを乞うだけの地獄の声だった。
 宮間の圧し殺した声がした。
「我々の弱点はSEXなんだ。いくら革命的であろうとしても、SEXを止揚しない限り真の解放なんてあり得ないんだ。SEXが我々を個別に疎外分断する装置として機能し、権力がそれを介して我々の意識を支配する構造が解らないのか」
「竹田、手伝え」
 他の奴らの動く気配がした。暗闇の中で展開する気配だけの行為を僕は実感できないでいた。ただ、繰り返し襲って来る脅迫感の一つに過ぎなかった。

 窓が暗い藍色に染まる頃、徐々に脅迫感が薄れてきた。そして、最後の奴に蹂躙されている彼女と交わっている錯覚の中にいる自分に気付いたとき、ベルトの金具の音がして、最後の一人が出ていくドアの音がした。うつ伏せのままの僕は新たな現実の後悔の淵に立っていた。頭を静かに彼女の方に振ると彼女は何もなかったように隅の壁に足を投げ出しもたれている。しばらく正面の壁を見つめていた彼女の口元がわずかに動いたが、その声はすぐにレコードの繰り返すノイズにかき消された。そのとき、彼女のくちびるが「だいて」と動いたように見えたのだが、僕にはその言葉を確める勇気はなかった。
 部屋の中では、レコードのノイズだけが繰り返し流れていた。

 彼女はレコードの針を上げると、水差しに目を落としたままの私の顔を覗き込むようにして尋ねた。
「ビリーホリデイでいいかしら、竹田さん」
 のぞき込んだ彼女の鼻先を指ではじくようにして、OKのサインを送った。
「いいですね、サマータイム」
 サマータイム。どうしようもない日常と過去の悔恨からの解放を無意識に共有できた偶然は、明日への過剰な気負いとも云えるそれぞれの自縛から解き放たれた昔の二人のように、それは必然であったのかも知れない。このブルースの気だるさに包まれた狭い空間こそが、言葉にできぬまま私が求めて続けてきたものだろう。たとえ私一人の身勝手な充足感だとしても、今あえて口にして確めるほど、昔のように臆病な私ではないと自身に言い聞かせていた。
「竹田さんのクセ、相変わらずですね。一人納得して、一人うなずくクセ。
 何を思っていらしたのか、当ててみましょうか」
その言葉は昔、私が黙り込むと彼女がよく口にした言葉だった。

 二人が二人だけの生活をはじめた頃、明日への気負いから解放されたいと思いこむ生活は、二人だけの密度を増していった。それは互いに二人以外の世界を捨象することを意味した。無知で未熟な者達の堕ちゆく先は、肯定もできず、否定もしきれなかった世界から疎外された、私が堕落と呼ぶ地平だった。
 彼女は確かに迷っていたし、疲れてもいた。そしてあの日、彼女の思いとは裏腹に現実が加えた行為は確実に彼女を傷つけ、彼女と彼女の託した思いを完璧に葬った。私は私で、私を駆り立てたものから決別し、堕落という課すべき何ものもない世界を求めていた。私は二人だけのあの六畳の部屋で眠り続けていたかった。
 しかし、私自身の中で彼女の比重が増せば増すほど、互いの不器用さや、寂しさだけを絆とする関係に一抹の不安をつのらせていった。傷はいつか癒える。それは以前のように明日を待つことのできる彼女が甦る不安でもあった。
 漠然とした不安と、言葉にできない焦りの日々を重ねていたある晩、彼女に対する想いとは裏腹に、私はポケットの切符一枚を握りしめ、その切符の意味することを切り出せずにいた。
 そんな私に気づいたのか、半畳の流しで鼻唄を歌いながら洗い物をしていた彼女の唄声が突然止んだ。そして廊下を隔てる小さな窓に向かいつぶやくように言った。
「そうなんだ……………………
 …………………………………
 竹田君、帰っちゃうんだ……
 …………………………………
 そう、帰っちゃうんだ……」
 わたしの裏切りを責めるように、流しのトタンをたたく水音がひときわ激しく鳴り響いていた。

 堕落を堕落としてあぶりだすこともできない現実は、堕落をむさぼり生きてきた今の私を映し出すことさえしない。昔の二人のように濃密に抽象化された関係性や、鮮明な影を写した現実が、今となっては、無性にいとおしいものに思えるのだった。現実から乖離しているかに見えたあの頃の現実こそ現実そのものだったのかもしれない。思いと感覚が直接現実と対峙し、思いと言葉をめぐらし、さらに鋭く尖らしていく。それがやがて現実に遠近をつけるようになり、現実をフレームで囲い、折れた思いの先端を丸めていったのだ。
 今朝まで、そう君に出会うまでは当然のこととして・・・、30年前の風景に目を細めることはあっても、それはただの淡彩の景色に過ぎないと自身に言い聞かせてきた・・・。わたしは洋酒棚を整える彼女の背中に黙して語りかけている。

 私の独り言が聞こえたわけでもないのに、彼女は振り返るとためらいがちに言った。
「あの3年にも満たない出来事にこだわっている私に、ずっと違和感を抱いてきたの。
 でも、今日竹田君に会えて安心した。今日から心おきなくこだわっていけそうで。
 心の入れ物なんて、そんなにも変わらないのね。変える必要もなかったのね。
 いつも、どこか居心地が悪くて、こだわる私が駄目なのかと思ってきたの。
 だから、今日、竹田君に会えてよかった」
「ぼくも今日まで漫然とそう思ってきた。あの頃、自分に課したものから逃れるために逃避とか堕落とか言っていたが、今思えば時代のベクトルに同意する限りにおいて成り立つ言葉だったのだろう。時代のうつろいと共に、ぼくにとって堕落は堕落でなくなり、内省する対象と意志を喪失した、DA・RA・KUというただの忌み言葉となっていた。しかし、あの時代を語る言葉の中で、ぼくが獲得した唯一の言葉でもあった。体制と反体制の二極の中で、常に受け身のまま選択してきたぼくだったが、あの事件を契機に体制を支えていたのも、反体制を支えたのも受け身のぼくであり、ぼくたちだったことに気付いた。その外的な二極のベクトルに収斂されず、結局何の答えも見いだせないまま、方向を喪失したベクトルはベクトルではなくなり、ぼくは群集の中の一個として立ちすくんでいた。
 ぼくは時代が示すベクトルの不条理さ、うさん臭さを実感した。言い換えればその時代を駆け抜けていった言葉の軽さ、自在さにうんざりしている。時代とは、歴史とは常にそういうものなのだろう。そんなベクトルに付き合うのはもうたくさんだ。疎外と消耗の中にいたあの頃のぼくがぼく自身なんだ。もう借り物の言葉で自身を語る必要はない。借り物の言葉で総括する必要もない。だから君は君で、ぼくはぼくでこだわっていけばいい。脱ぎ散らかしてきたものを一つ一つ拾い集めるように・・・」
「そうね、私たちには精美荘はいつまでも精美荘よね・・・」

 突然ドアのあく音がした。
 わたし達がそろって振り向くと、そこに立つ青年二人と眼が会った。
「ママ、邪魔なら帰るよ」青年の一人がおどけて言った。
「生意気なこと言って・・・。
 水割りでいいんでしょ」
 彼女は二人に水割りを出すと、すまなさそうに尋ねた。
「おかわり 作りましょうか」
 わたしはその言葉に促されるように店をあとにした。帰り際にかかっていた軽快なテイク・ファイブを耳に残したまま。

 あれからしばらくして、日没にまだ間がある頃、彼女の店を訪ねるようになった。二度目からは彼女も私のとなりに座るようになり、私も自然に彼女の腰に手を添えるまでになっていた。
 彼女の話に上品な作為を感じ、やさしさを無作為の微笑みに見つけ、知らず知らずに心は満たされていく。
 私はただ隣に腰かけ、彼女の横顔を眺め、グラスに映るその微笑みを飲みほす。
 印象に残るのは、カウンターの突き当たりにある小窓から差し込む一筋の夕日。その夕日は彼女のシルエットをつくり、解れ毛をブロンドに輝かす。
 街中の雑踏は小窓でミュウトされ、この部屋の静けさをさらに引き立てる。退屈でそれでいて重すぎる日常から二人を解き放ってくれる小部屋。
 私の手を静かに彼女の手に重ねるとき、二人を隔てたこだわりはほろ苦いビールに融ける。
 夕日が沈み、今日一日を惜しむ青だけの世界が小窓に映る。
 私は吟遊詩人になり、歌姫は私の言葉を口ずさむ。
 小窓からネオンの原色が差し込み、小さな吐息が彼女の唇からもれるとき、私は彼女を抱きよせ、そのため息を受けとめる。
 この二人の部屋がいつまでも続くとは思わない。そんな予感のなかで彼女は過去も未来も語らずに微笑む。進むことも、戻ることもできない、袋小路のこの小部屋で。

おわり

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